極めつけはこのセリフ。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」
庶民をあざ笑うかのような、上流階級の“上から目線”こそがマリー・アントワネットの代名詞でしょう。
1793年10月16日はその命日。
いかにも“頭の軽い残念な女”という評価がくだされておりますが、実際のところ、彼女が放った言葉ではないことが西洋史好きには知られていています。
それでも一度ついてしまった悪評を覆すことはかなり困難。
フランスの歴史家も頭を痛めている問題であり、日本で言えばフィクションにおける織田信長が「とにかく残虐無道な魔王」として描かれるのと似ているかもしれません。
しかしなぜ彼女はこうも悪名高いのか?
なぜそんなマイナスイメージが定着してしまったのか?
マリー・アントワネットの生涯を振り返ってみましょう。
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愛人がいないゆえ正妻に注目が集まる
まずはひとつ質問です。
ルイ14世、ルイ15世の王妃が誰だったかをご存じですか?
おそらく、パッと出てこないかと思います。
それでは彼らの寵姫はいかがでしょうか。
ルイ14世には人気ライトノベルのキャラクターモデルにもなった、可憐なルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール、モンテスパン侯夫人らがいます。
※以下はモンテスパン侯とルイ14世の関連記事となります
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ルイ15世の愛人には、政務に携わり、ヘアスタイルの名前に今も残るポンパドゥール夫人がいます。
デュ・バリー夫人も『ベルサイユのばら』でおなじみでしょう。
フランスの王たちは、政略結婚で結ばれ、世継ぎを作る義務的夫婦の王妃より、選び抜かれた美貌や個性を持つ寵姫の方を深く愛していたのです。
世間の目も、公の場に姿を見せて派手なファッションを見せ、より自由に行動できる寵姫の方に集まります。
貴族の女性たちは寵姫のファッションを真似、宮廷に出入りする人たちも寵姫の機嫌を取っていました。
現代人がイヴァンカ・トランプやキャサリン妃のファッションをチェックしてニュースにするように、当時の人々は王の側にいる女性を熱心に見つめていたのです。
ところがルイ16世は真面目な性格で、妻であるマリー・アントワネットだけを一途に愛していました。
妻としてそれは喜ばしいことかもしれません。
しかし、そのぶん世間の目は王妃に集まってしまいます。もしもルイ16世に寵姫がいたら、王妃に向けられる非難の目は何割かが軽減されたことでしょう。
平時ならばともかく、激動の時代において「寵姫という盾」を持たないマリー・アントワネットは、どうしても不利なポジションにさらされる立場にありました。
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フェイク・ニュースの犠牲者
寵姫という盾がないマリー・アントワネット。
彼女のファッション、行動、何もかもが世間の好奇心にさらされました。
当初はファッションリーダーとして好意的に見られていたファッションも、揶揄や軽蔑の対象になります。
マリー・アントワネットは我が子たちとともに描かれた肖像画を作成させ、優しい母親像を世間にアピールしようとしますが、効果はありません。
事態は悪化してゆきます。
マリー・アントワネットには親しい女友達が多数いました。
その交友関係も、実は同性愛関係ではないかと噂され始めます。
さらには革命後には、我が子に性的虐待を加えていたというでっちあげの嫌疑により、裁判にまでかけられています。
美貌の王妃はポルノの題材としても最適ってことでしょう。マリー・アントワネットには美しい肖像画だけではなく、下品な諷刺画も数多くのこされました。
悪意を持った人々、好奇心旺盛な大衆にとって噂の真偽など、どうでもよかったんですね。
こうしたフェイク・ニュースが王室を揺るがすほどにまでなったのは、1785年の首飾り事件でした。
元は、前国王の寵姫であったデュ・バリー夫人のために作られたという、豪華な首飾りをめぐるこの詐欺事件に、マリー・アントワネットは一切関与していませんでした。
ところが犯人が勝手に彼女の名を出したため、世間は強欲な王妃が黒幕だと噂するようになったのです。
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以来、世間でのマリー・アントワネットの評価は下落していきます。
彼女は潔白でしたが、世間を騒がせる事件に関与してしまったことで、消えない傷がついてしまったのです。
この事件は、4年後に勃発するフランス革命の序章とみなされています。
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