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ナポレオン3世の生涯
ナポレオン3世を語るには、ジョゼフィーヌ不妊問題から始めねばなりません。
と、これまた、ちょいとややこしいのです。

ナポレオン3世/wikipediaより引用
実は甥っ子です
なかなか夫との子ができずにモヤモヤしていたジョゼフィーヌ。
そんな彼女と夫ナポレオン1世が下した決断は、こんなものでした。
「ジョゼフィーヌの娘・オルスタンスと、ナポレオンの弟・ルイ(のちのオランダ王)を結婚させる。その間にデキた子を後継者にしよう」

オルタンス・ド・ボアルネ/wikipediaより引用
ナポレオンは、義理の子となったウジューヌとオルスタンスを可愛がっていました。
二人ともジョゼフィーヌの子であり、ウジューヌは誠実かつ優秀。
オルスタンスは、イケメンでもなく暗いルイと結婚するなんて嫌だなぁ、と乗り気ではありません。
しかし、母と義父のためならばと妥協して結婚します。
この夫妻の間の三男が、ルイ・ナポレオン、のちのナポレオン3世なのです。
ナポレオン弟の子供ですから、甥っ子になりますね。
彼は1808年生まれ。
ナポレオン2世とは違い、第一帝政全盛期にあたりました。
ただし、物心ついた頃にはもう下り坂。
幼くして、伯父であるナポレオンは没落し、ボナパルト一族はヨーロッパ全土に散り散りとなり、苦難の生活を送りました。
金をめぐる生々しい争いもあり、絶縁したきょうだいもいるほどです。
「今時ナポレオンとかバカじゃないの」
そんな苦難の中、オルスタンスは、ナポレオン3世を厳しく鍛えて育てます。
苦しい中でも、フランス皇族であることを忘れるなと叱咤激励したのです。
家庭教師ル・バの薫陶もあり、ナポレオン3世は学問的に洗練性のある青年へと成長してゆきます。
折しも1830年代は「七月革命」以来、煮えたぎる時代です。
ポスト・ナポレオン待望論もありました。
「よーし、これからは私の時代だ!」
そうイキり立ったのか。
ナポレオン3世は1836年のストラスブール、1840年のブローニュで、クーデターを起こします。
が、二度とも失敗。
フランスの世論は、そんなナポレオン3世に冷ややかでした。
「冒険家」
「バカ」
「まともじゃない。醜悪」
「自分を英雄だと勘違いしている、悲惨なまでに笑えるアホ」
無茶苦茶に叩かれ、ネタ扱いされてしまったのです。

アホ扱いされている時代のナポレオン3世/wikipediaより引用
しかし、何事にもチャンスはあります。
クーデター犯としてアムという街にある監獄に収監された彼は、時間を得ます。
囚人として、メキメキと学問に励んだのです。
そして1846年、ナポレオン3世は石工の紛争で脱獄を果たします。
行き先はイギリスでした。
ナポレオン待望論というビッグウェーブ
このころ、ナポレオン待望論が噴出。
1840年、セントヘレナ島からナポレオンの遺骸が戻ってきます。
古参兵はじめ、多くのフランス国民が感動を示しました。
1848年には「二月革命」勃発し、ルイ・フィリップが王座を追われます。

フランス2月革命/wikipediaより引用
ボナパルト家の追放令も解かれ、革命後の総選挙では一族の中から当選者も出てきたほどです。
この選挙では、立候補をしていないナポレオン3世に投票する者もいたほどですから、もう絶好のチャンスじゃないですか!
こんな中でナポレオン3世が同年の大統領選挙に出馬すると、ポッと出であるにも関わらず、当選を果たしたのです!
クーデターで第二帝政開始するも
ナポレオン3世は、そのまま大統領でおとなしくしていなかったからこそ、第二帝政となるわけです。
共和国憲法改正。
抵抗勢力との対決。
そういった足固めをしながら、1851年にクーデターを起こし勝利をおさめます。
ところが、これは当時から突っ込まれていたものですが、ネタ扱いをされていました
実際のところ、ナポレオン3世もそこまで乗り気ではなく、側近がグイグイ押したようです。
ネタ扱いされてしまう、その理由は?
・二度目は喜劇だ
「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」
カール・マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール』で簡潔にこう言い切りました。
確かにネタ感があります。
・バカだから
身も蓋もありませんが、ナポレオン3世は当時から「あのバカ」扱いでした。
芸術的なセンスはなかなかのものですが、政治、軍事がダメでして……。
・偉大なのは本人じゃない、伯父だろ
これも身も蓋もありませんが、そんなバカでも皇帝になれたのは、「ナポレオン」という名前だけで浮かれる連中を騙したからだろう、という見方が定着していました。
地球の裏側の江戸期日本人だって浮かれるほど、ナポレオンは偉大ですからねぇ。
このあたり、なかなか面白いものも見えてきます。
フランス革命を経て、実施されるようになった大統領選挙。
しかし、蓋を開けてみればノリや懐古趣味だけで、立候補者の資質を考えない投票層がいると実証されてしまったとも言えるわけです。
ポピュリズムの弊害が叫ばれる現在ですが、実はその兆しはこのころにはあったのでしょう。
全てがネタになる
皇帝として君臨したナポレオン3世には、功績がなかったわけではありません。
現在に至るまで残されたパリの街並みはじめ、都市インフラ整備といった功績もあります。
パリのインフラを整備したのに!
ただ……そんなものすら、なにもかもネタとしての扱いが消してしまいます。
軍事的才能もないくせに、戦争をやりまくる。
無能のくせに、伯父を真似した政策で失敗。
普仏戦争での大敗。
そして1870年の退位、亡命――1世の場合は悲劇として扱われたことが、ことごとくネタ、喜劇にされてしまうのです。
そういう意味では、極めて不運な人物と言えます。
ただ、皇帝の誇りを保ち続ける人がいないわけでもありません。
フランスを代表する、世界史上でも最古参と言える化粧品メーカー「ゲラン」。
このゲランの香水「オーインペリアル」は、ナポレオン3世の皇后であるウジェニーに献上したものとされています。

ウジェニー/wikipediaより引用
「どや! 皇帝一族が好んだんだ!」
そういう誇りがあるんですね。
ネタだけじゃないんです。
ナポレオン3世も、頑張ったのです。
なお、日本の幕末期、フランスはライバルであるイギリスに対抗し、幕府に接近しました。
そのときのナポレオンがこの3世です。
幕府のメンツは
「えっえっえっ! あのナポレオンのご子孫がフランスを支配しているんですか!?」
と、ハイテンションになり、この反応には、ナポレオン3世も嬉しかったことでしょう。
徳川慶喜は、ナポレオン3世から贈られた軍服を身につけております

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜
現代日本人も、JFKことケネディ大統領の長女キャロライン・ケネディ氏が駐日大使となった際には騒いだものです。
そういうのと似た感覚ではないでしょうか。
ちなみにナポレオンブームはしばらく続き、それが萎んでしまうのは、普仏戦争の後からです。
明治政府は、幕末以来政府を支援してきたイギリス、そしてフランスを破ったプロイセンを見習おうとシフトしていったのでした。
話をナポレオンに戻しましょう。
次は4世です。
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