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ナポレオン2世の生涯
偉大なる父のもと、生まれた悲運の子。
ナポレオン2世――その誕生前に、ナポレオン1世の結婚生活を振り返ってみましょう。
打算はあったとはいえ、ぞっこん惚れ抜いてジョゼフィーヌと結婚したナポレオン。
悩みは尽きませんでした。
ジョゼフィーヌが、なかなか妊娠しないのです。
それでも当初、ナポレオンは冷静でした。
ジョゼフィーヌは二児の母であり、自分の生殖能力のせいとも言い切れなかったからです。
そこで彼女の娘と自分の弟を結婚させ、その間の子を仮の後継者とします。そして、いざとなれば血縁のある養子を迎えればいい。そう考えていました。なかなか冷静ですね。
しかし、この心理状態に変化があらわれます。
自分の愛人が妊娠したのです。
はじめの一人は、気の多い相手であったため、彼はこう考えました。
「でもまぁ、他の男との間にデキた子かもしれんしなぁ」
状況を一変させたのが、ポーランド人貴族の娘であるマリア・ヴァレフスカです。

マリア・ヴァレフスカ/wikipediaより引用
純情一途な彼女だけは絶対に浮気をしない。その彼女が身ごもったのです。
「なぁんだ、俺ってちゃんと妊娠させられるんだぁ!」
二人の子であるアレクサンドル・ヴァレフスキ。

アレクサンドル・ヴァレフスキ※ちゃんと父親に似ていますね/wikipediaより引用
そう安堵すると、何が何でも自らの血を引く男児を後継者として欲しくなります。
そこでヨーロッパ中の王室に縁談を探し回るのですが、どの家も冷たい返事。
ナポレオンと心が通じ合っていたはずのアレクサンドル1世すら、妹は無理だと断って来たのでした。
そしてようやく得られたのがオーストリア皇女であるマリー・ルイーズ。
「コルシカの人食い鬼の妃だなんて!」
彼女自身、この縁談には悩み苦しみました。
しかし、断ることはできません。

マリー・ルイーズ/wikipediaより引用
不満だったのは、彼女だけではありません。
これしか選択肢はないとはいえ、フランス国民が大反発したのです。
俺たちの愛するババアを離縁するんじゃねえよ!
ジョゼフィーヌは、ナポレオン快進撃伝説の始まりとなったイタリア遠征に同行していました。
このこともあってか「勝利の女神」と兵士から大人気。
彼女を「あのババア」と親しみを込めて呼んでいたほど。
そのため「あのババアと別れちまうなんて、もうダメだよ! ガッカリだな!」なんて失望感が、古参兵から湧きあがったのです。
これがただのジンクスでもなかったのですから、歴史の奥深さであり怖いところでもありますね。
・オーストリア出身の王妃っていえばあの……
当時のフランス国民にとって、オーストリア出身の王妃といえばマリー・アントワネットでした。
「オーストリア女め!」
あの王妃を罵り、ギロチンへ送り込んだ記憶が、まだ人々の脳裏にはこびりついていました。
マリー・ルイーズは、マリー・アントワネットにとっては姪にあたります。
そりゃ不吉じゃないか、そんな思いが胸をよぎるのです。強引にギロチンにした後ろめたさの裏返しでもあるのでしょう。
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シレッとした顔で、本当は復讐を狙っているんじゃないの?
そんな不安がつきまとい、フランスについた時点で冷たい視線が浴びせられました。
ただし、その役割を担ったのは、マリー・ルイーズではなく、マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズでした。
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こうした中で、皇帝と皇女のカップルは無事に結婚を果たします。
そして、ナポレオンの後継者である2世が誕生。
初の子が男児であったことに、父は歓喜を見せました。
しかし皮肉にも、このころ父の威光は急降下の一途であったのです。
マリー・ルイーズは悪運をもたらしたのか?
そんなナポレオン2世の母であるマリー・テレーズは、不人気な人物です。
前述の通り、オーストリア出身であることもマイナス。
マリー・アントワネットはその贅沢ぶりが嫌われましたが、彼女は反対です。倹約家であったため、出入り業者からこう陰口を叩かれてしまったのです。
「ジョゼフィーヌ様は気前よく何でも買ったのに、あのドケチなオーストリア女はダメだな」
なんとも理不尽な話ではあります。
その若さや性格も、ナポレオンにとっては災いしました。
ジョゼフィーヌは、社交界での生活が長く、離婚経験や愛人生活もある人生経験豊富な人物でした。
結婚当初は愛人を作り、ナポレオンを怒らせたものの、そのあとは落ち着いた生活を送っています。
彼女は、夫をリラックスさせるテクニックに長けていました。
ナポレオンのストレスを癒す、そんな抜群のセンスを持ってして、悪妻から良妻に、華麗なる変貌を遂げたわけです。
しかし、マリー・ルイーズはお姫様です。
ナポレオンは、彼女の機嫌を取り、気遣うために苦労しました。妻との生活で、むしろストレスを増加させてしまったわけです。
「あのババアを手放したら、勝てなくなるぞ!」
これは当時の古参兵の嘆きでしたが、そういう要素は確かにあります。
ナポレオンの勝利には、験担ぎでもなく、ジョゼフィーヌのストレス解消センスが役立っていたのでした。
むろんマリー・ルイーズは悪くありません。ただ、比較対象が悪すぎました。
ナポレオンが死の直前に名を呼んだ、ジョゼフィーヌ。
流刑地エルバ島まで訪れた、優しく可憐なマリア・ヴァレフスカ。
こうした女性とは違い、彼女はあまりに愚鈍で冷たいとされたのです。
しかし、それはどうでしょうか?
周囲の思惑、ナイペルクの復讐
マリー・ルイーズがそうなったのは、父はじめ周囲の策略の結果でもあります。
当初、夫であるナポレオンの没落を嘆いていた彼女に、周囲は、こう吹き込んだのです。
「ローマ教皇は、ナポレオンとジョゼフィーヌの離婚を認めていない。つまり、お前はただの内縁の妻だったのだよ。息子だって私生児に過ぎない」
「それに、エルバ島にはナポレオンの愛人が向かっているのだとか」
これだけではありません。
隻眼の美男軍人ナイペルク伯が、彼女に目をつけました。

隻眼の美男軍人ナイペルク伯/wikipediaより引用
ナポレオンとの戦争で傷ついていた彼は、生々しい復讐を計画。
ナポレオンをコキュ(寝取られ男)にしてやろうとその機会を窺っておりました。
と、これが成功します。
純粋なマリー・ルイーズは、たちまち魅力的な彼と恋に落ちるのでした。
周囲も、こんなロマンスには冷たいどころか、応援しています。
「あのかわいそうな子に、ちゃんとしたロマンスと喜びを教えてあげなくちゃ。古い恋を忘れるには、新しい恋って言うからね」
そんな心境ですね。
一方でナポレオンからは、エルバ島に来いと怒った手紙は来るわ。
我が子すら私生児扱いだというわ。
元妻としては、ウンザリさせられるわけです。
ナポレオンとの結婚そのものが、マリー・ルイーズにとっては黒歴史となってしまいました。
ナイペルクの死後、彼女はパルマ公の妻として、第二の人生を生きることとしたのです。そしてその方が幸福でした。
私の父は誰なのだ?
しかし、これは彼女の子にとっては違います。
ナポレオン2世は、生まれた瞬間から不運極まりない人生を送り始めたかのようです。

ナポレオン2世/wikipediaより引用
父母が結婚し、彼自身が生まれると、ナポレオンの覇業は下り坂に向かいました。
ナポレオン2世は、こう嘆きました。
「我が母がジョゼフィーヌであればよかったのに!」
決して叶わぬその願い。
それは彼の人生の本質をえぐった言葉とも言えます。
生まれながらに「ローマ王」と呼ばれながら、彼は悲運を背負っていました。
彼がナポレオン2世とされたのは、ワーテルローの戦い敗北後、まさしく混乱の最中でした。
周囲も、彼の扱いに困っていたところがあります。
まだ幼い彼に罪はない。しかし、その血が困りものなのです。
「お前はドイツ貴族、ライヒシュタット公だ」
ウィーンの宮廷でそう扱われるナポレオン2世。
彼は幼い好奇心で、父の姿を求めました。
どうして周囲は、父のことを隠そうとするのだろう?
母は私に冷たいのではないか?
籠の中の鳥のように育てられながら、彼はなんとか父の事績を知るべく力を尽くします。
そんなナポレオン2世の元に1821年、訃報が届きます。
父・ナポレオン1世がセントヘレナ島で一生を終えたというものでした。
以来、彼は父の名を口にしなくなります。
憧れていた父は、もうこの世界にいないのだから。
会うことはできないのだから。
失われた父を求めて
皮肉にも世界はナポレオンを求めるようになりました。
あれほど第一帝政末期は失望していたのに。
各地の村から青年が徴兵され、命を落としていったのに。
そんなことを忘れたかのようです。
古参兵たちはナポレオンを懐かしみ『あの頃は良かった』と語るようになります。
王政への不満や懐古といった要素も重なっていました。
1830年、暗君として不人気であったシャルル10世が暴動で王座を追われます(「七月革命」)。
ブルボン朝の支配はまたも終わると、人々の間で第2のナポレオン待望論が高まります。
ナポレオンの支配地域は広大でした。
ベルギー、イタリア、ポーランドにまで、その待望論が広がってゆくのです。
こうした状況を、イギリス、オーストリア、ロシアが放置できるはずもありません。
ナポレオン戦争なんて、もう二度と真っ平御免。
2世に罪は全くなくとも、その存在自体が危険分子になってゆくのです。
父の後継者として目覚めたのか。
ナポレオン2世は、軍務に勤しむようになりました。
ドイツ貴族ライヒシュタット公として生きて欲しい、母方のオーストリアはじめとする王侯貴族たち。
ナポレオンの血を求め、熱いまなざしを向ける父の元部下や民衆。
そんな父母の血が拮抗し続ける、あまりに辛い人生。
彼は血と運命に苦しみつつ、生きてゆくしかありません。
そんな彼に残された歳月は、短いものでした。
1832年、結核とみられる病に罹ったナポレオン2世は、錯乱しながら息を引き取りました。

ナポレオン2世の最期/wikipediaより引用
享年21。
我が子に冷淡であったマリー・テレーズも、その死に胸を痛めたとされます。
ともかく庶子である愛人の子は別として、ナポレオンの直系かつ嫡子の血統はここで途絶えるのでした。
あれ?
じゃあナポレオン3世って誰なの?
と、これが少々ややこしい話でして。
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