1680年(日本では江戸時代・延宝八年)11月28日は、イタリアの彫刻家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが亡くなった日です。
イタリアで芸術というと、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロのような、ルネサンス期(だいたい14世紀~16世紀)の人が話題になることが多いですよね。
しかし、このベルニーニもイタリアにとって、そしてローマにとってなくてはならない存在。
その業績は「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞されるほどなのです。
ただし、そうなるまでの道のりは、浮き沈みの激しいものでした。
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7歳のときにローマへ 優れた芸術に触れて育つ
ジャンに限った話ではありませんが、彼の幼少期はあまり話題になりません。
ただし、父ピエトロが彫刻家で身を立てていたため、幼い頃からこの世界に触れる機会は多かったでしょう。
ピエトロは元々フィレンツェ郊外の出身でしたが、妻のアンジェリカがナポリ出身であること、そして仕事先がナポリだったことで、ナポリへ引っ越してきていました。
今では「イタリア」という同じ国としてみなされていますが、当時のフィレンツェとイタリアは国名はもちろん、文化的にも別の国といっても過言ではなかったので、最初のうちは結構苦労したでしょうね。
そしてジャンが7歳のとき、一家はローマへ引っ越します。
バチカンのナンバー2である枢機卿の一人に保護を受け、ピエトロの仕事先とジャンの将来の下地を得ることになったのです。
おそらくジャンは、そこでも様々な彫刻に触れたハズ。
父の作品はもちろん、過去の巨匠や当時の優れた彫刻家・画家の作品は、何よりも勉強になりますよね。
もしかしたら、直接作者たちと話したり、技術を教わる機会もあったかもしれません。
早いうちから優れた才能や作品に触れることができたおかげか、ジャンは若い頃から成功を収めています。
「アイネイアスとアンキセス」など、最初期に作ったギリシア神話の彫刻により名声を得て、25歳のときにはときの教皇・ウルバヌス8世から「ローマに教会の権威を表すような彫刻をたくさん作るように」と命じられるまでになりました。
バチカンの中枢である、サン・ピエトロ大聖堂もその中に含まれています。
かつてミケランジェロやラファエロが数々の作品を残した場所でもあり、ジャンは栄誉と自信を抱いて仕事に取り組んだことでしょう。
サン・ピエトロ大聖堂の鐘塔に亀裂が見つかり評判ガタ落ち
宗教施設以外では「トリトーネの噴水」など、噴水も多く手がけました。
ピエトロとの共作とされるものもあり、親子仲も良好であったことがうかがえます。
親子ともに同じ芸術を志す、というのはよくある話ですが、共作となると意外に少ないんですよね。
しかし、1641年にジャンの作ったサン・ピエトロ大聖堂の鐘塔に亀裂が見つかり、評判が一気にガタ落ち。
ローマの象徴ともなる建物に欠陥を作ってしまったのでどうにもなりませんでした。
元々若いうちに美術界の筆頭とも呼べる立場になってしまったことで、他の芸術家その他から嫉妬を買っていましたから、その分もぶつけられたのでしょう。
古今東西あるあるですよね。
「見かけばかりで実用をなさないベルニーニ」とまで罵倒されています。
芸術は実用的でなくていいものですが、実用品である建築物でミスを犯してしまったことで、反論もできなかったのでしょう。
しかも、この数年後にはジャンを引き立ててくれた教皇・ウルバヌス8世が亡くなり、次の教皇インノケンティウス10世になると、あからさまに注文が減りました。
インノケンティウス10世はあまり芸術を好むタイプではなかった上、他の芸術家たちにばかり発注をかけたのです。あちゃちゃ……。
とはいえ全く仕事をしないわけにもいきません。
芸術一筋で生きてきたジャンが、他の仕事で生計を立てるのも難しいところ。
彼は腐らず、自分らしい作品を作ることに専念します。
17世紀の傑作の一つ「聖テレジアの法悦」
そして、後に「17世紀の傑作の一つ」と称される「聖テレジアの法悦」を作り上げました。
ヴェネツィア出身の枢機卿フェデリコ・コルナーロの私的な廟所の装飾のために作られたもので、聖テレジアという女性の聖人が、神の存在を感じ取って衝撃を受けている場面を表しています。
また、ローマの観光名所としても有名な「四大河の噴水」も、この不遇な時期の作品です。
時代背景を全く知らずにこれらの作品を見ると、とても不遇だった時期のものとは思えませんよね。
こうして11年ほどの間、バチカン中枢の仕事をする機会には恵まれませんでしたが、それだけの年月を耐え忍んだことを、神様は評価してくれたようです。
インノケンティウス10世の後に教皇となったアレクサンデル7世が、またジャンに仕事を頼むようになったのです。
中でもいろいろな意味で大きな仕事は、サン・ピエトロ広場でした。
現在もバチカンを象徴する、あの円形+αの広場です。
実はあの場所は、この時代までただのいびつな空き地でした。
ジャンも依頼を受けた当初は困惑し、どんな形に作り上げればいいか、かなり迷ったようです。今の形に作り上げるまで、10年ほどの歳月を要しています。
最終的に彼が抱いたイメージは、「サン・ピエトロ大聖堂が全ての教会の母たる存在なのだから、その前の広場もそれに似つかわしい姿にするべきだ」というものでした。
細長い道から一気に広大な円形の広場に出る辺りは、たしかにそんなイメージがわき起こりますね。
太陽王・ルイ14世に招かれルーヴル宮殿の改築にも携わる
この成功により、イタリアの外からもお呼びがかかります。
太陽王・ルイ14世に招かれて、ルーヴル宮殿の改築に携わっています。
ヴェルサイユ宮殿の前にフランス王家が使っていたもので、現在のルーヴル美術館を含む一連の建物です。
ナポレオン以降に増築された部分もありますが、ルイ14世の時代に増築された部分が多いので、ジャンもその部分の何処かに関わったと思われます。
この頃には名声もすっかり回復しており、ジャンは81歳で亡くなる年まで仕事をし続けました。
最後の作品は、キリスト像だったそうです。
バチカンに振り回されてもなお、信仰を失わないというのは恐れ入ったものですね。
長月 七紀・記
【参考】
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ/wikipedia