学校の偏差値やテストの点数、営業職の売上や契約数などが代表的でしょう。
では数字にできないものは全く評価されないのか?
といえば、そうとも限りません。
1854年(日本では幕末・安政元年)11月21日は、第258代ローマ教皇・ベネディクトゥス15世が誕生した日です。
元々西洋人の名前は似たものが多いのに加え、ローマ教皇となるとさらにパターンが限られ、どんな人なのか想像がつきにくいですよね。
しかし、この人は「ジャンヌ・ダルクを聖人認定した」という、かなり覚えやすいポイントがあります。
まずは生涯をさらっと確認してみましょう。
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ジェノヴァの貴族出身 ベネディクトゥス15世
ベネディクトゥス15世は、ジェノヴァの貴族の家に生まれました。
本名はジャコモ・デッラ・キエーザといいます。
最初はバチカンの外交官として働き、21歳で法学の博士号を取得したといいますから、かなりの秀才だったのでしょう。
当時の枢機卿の一人であるマリアノ・ランポッラに抜擢され、バチカンで出世。
ローマ教皇庁の国務長官(国務省=バチカンの内閣みたいな機関・その長官)に上り詰めました。
53歳でイタリア北部の都市・ボローニャの大司教となった後は60歳でバチカンのNo.2枢機卿に就いています(ただし複数いる)。
そして、第一次世界大戦の勃発直後に教皇ピウス10世が亡くなったため、コンクラーヴェによって次期教皇に選ばれ、ベネディクトゥス15世を名乗るようになりました。
戦時中は停戦を呼びかけたり、イギリス国教会との関係改善など、融和を意識した外交を行っています。
大きな実を結ぶのはもう少し後のことですが、これは彼が教皇になったのが60歳で、亡くなったのがその8年後ということも大きいでしょうね。
異端者として処刑されたジャンヌ・ダルクが聖人に
ベネディクトゥス15世の名は、彼が列聖した超有名人によって知られている面があります。
列聖とは、キリスト教で信仰の模範にすべき信者を「聖人」というポジションにすることですが……。
あのジャンヌ・ダルクを聖人としたのです。
ジャンヌ・ダルクは異端者の罪で火刑になり(キリスト教ではない神と交信したから「お告げ」を聞いたんだという屁理屈)、【百年戦争】のすぐ後から復権裁判は行われていました。
「無罪である」と主張する人々はその後も現れ、ナポレオンの時代に最盛期となります。
そして1909年にピウス10世がジャンヌを列福し、1920年にベネディクトゥス15世が列聖したことで、ジャンヌの名誉は完全に回復されました。
ジャンヌ・ダルクはなぜ処刑された?オルレアン包囲戦から最期の時まで
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第二次世界大戦ではヴィシー政権(ドイツに占領された後の傀儡政権)も、レジスタンスも、ジャンヌのイメージを利用していますし、フランス海軍の船にもその名を冠したものが複数作られました。
列聖から20年程度で、それほどの影響力を持ったことになるわけです。
そりゃ、そのキッカケになった教皇の名も知られるようになるわけですよね。
とはいえ、ベネディクトゥス15世はそれだけではありません。
他にも多くの列福・列聖を行っています。
女性繋がりで二人ほど見てみましょう。
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