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【ルネサンス建築】
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ブルネレスキの秘策は、ローマのパンテオンにあり
前述の通り、1401年のコンクール以来、ブルネレスキは建築へと転向しました。
「今度こそ、ナンバーワンになってやる!」
心を熱くする彼にとって、古代の遺構が多く残るローマはまさに宝物庫だったでしょう。約15年にわたって滞在、ひたすら遺跡の研究に没頭し、その成果を血肉としておりました。
そんな彼の研究対象の一つとなったのが、パンテオンです。
2世紀ハドリアヌス帝によって建てられた神殿で、7世紀には聖堂に転用されます。
大きな円堂の上にドーム屋根が乗った構造で、その直径は43.2メートル。フィレンツェの人々の頭を悩ませているクーポラとほぼ同じ大きさです。
しかし、内部を見ると、柱は使われていません。
カギは、二重構造にありました。
まず分厚い内殻で骨組みを覆い、少し間を空けて薄い外殻で覆う――こうして重量を軽減し、また二つの殻が互いを支え合うようになります。
「これだ!」
ブルネレスキもそう思ったことでしょう。
コンクールの告知が出るや否や5000個ものレンガを使い、模型を制作します。
しかし、15世紀当時から見れば、大きく常識を外れた「仮枠や柱を一切使わない」というブルネレスキのアイデアはなかなか理解されず、批判も少なくありませんでした。
それでも、最終的にはブルネレスキの案に落ち着きます。
本番はここからです。
ブルネレスキ、最高の見せ場……と言いたいところですが、彼にとっては我慢のできない事態を迎えておりました。
因縁のあの男あらわる
聖堂造営委員会の「お偉方」たちは、ブルネレスキ一人に任せることをよしとしなかったのです。
彼らが共同責任者として押し付けてきたのは、よりにもよって『イサクの犠牲』で優勝を競い合ったあのギベルティでした。
以来、フィレンツェの美術界ではそこそこの地位を得ていたギベルティ。
今回のクーポラをめぐるコンクールにも参加していましたが、実のところ、建築に関しては素人でした。
共同責任者とは言っても、実際はブルネレスキにほとんどお任せ状態となります。
「ざっけんなぁーーっ!」
そしてブルネレスキさん、案の定、キレてしまいます。
気に入らない。
建築のけの字も知らないくせに、恥ずかしげもなく自分と同じ「責任者」の地位に居座り、同じ額の給料まで受け取る。
クーポラを完成させても、手柄の一部はギベルティのものになるのです。
実績・経験を考えれば、まるで、ブルネレスキがギベルティの力を借りたようにも見えるでしょう。
ギベルティへのイラ立ちは日増しに募っていきます。
「あの足手まといめ、どうしてくれよう……」
ついにブルネレスキは、『体調が悪い』と言い立て、作業場に来なくなってしまいました。
残されたギベルティには、大任がのしかかります。
「どうしよう…… (ー_ー;)」
手がかりは、ブルネレスキが置いていった模型だけです。
とりあえずやれることはやってみようと思い直し、作業員たちに指示します。
しかし、半分近く出来上がった頃でしょうか。
「ふー、やれやれ」と現場に現れたブルネレスキ。病み上がりとは思えないほど、ピンピンしています。
目が点になる作業員たちを尻目に、ブルネレスキは作業を一つ一つチェックしてまわります。
そして、一言。
「……全然ダメだな」
冷ややかに言い放つと、一からのやり直しを命じたのです。
ギベルティのしたことは全てがムダになりました。
そればかりか大勢の前で赤っ恥をかかされたギベルティは、給料を減らされ、仕事もクビになってしまうのです。
彼は彼なりにベストを尽くした。
とはいえ今回ばかりは、門外漢の彼が口を出す場面ではなかったということでしょう。
ブルネレスキ、プロフェッショナルの誇りを賭けて
目障りなライバルを追い払い、思う存分腕をふるえるようになったブルネレスキ。
彼は全てのアイディアと情熱をクーポラ建造事業に注ぎ込みます。
例えば、建造に使う煉瓦のチェックのため、職人のもとに足を運び、材料の比率や焼き加減などを細かく指示しました。
焼き上がったレンガも全て自らの目で一つずつチェック。
総数はなんと四百万個に達するというから想像するだけで目が痛くなりそうです。
他にも、技師としての知識と経験を活かし、建材を運びあげる機械を発明したり。
作業員たちに対し、命綱を義務づけたり。
上りと下りで専用の階段を設けるなど、安全面でも細かく配慮したりしています。
性格の悪い……ではなく我が強い芸術家というだけではなく、思いやりも持ち合わせた方だったのですね。
実際、高所での危険な作業だったにも関わらず、工事中の死者は一人だけだったと言います。
まさに全身全霊。そんな言葉がぴったりの奮闘ぶりでしょう。
そして着工から約二十年後の1437年、フィレンツェ市民たちの夢・大クーポラがついに完成したのです。
その後
クーポラ完成後、今度はその上に乗せるランターン(頂塔部分で現在も人が登れます)の建造がありました。
ブルネレスキとギベルティはここでもぶつかり合います。
結果は、ブルネレスキの勝利。
残念ながら、頂塔の完成を見ることなくブルネレスキは亡くなりましたが、後に建てられる聖堂建築において手本とされました。
また、この後にミケランジェロが上ってきて、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂のクーポラの架け方の参考にしたとも言われています。
プロフェッショナルとして彼が圧倒的な技量を持っていたことは事実。同時に自信と誇りを持っていました。
そのアクの強さがあったからこそ前人未到のプロジェクトを成功させることができたのでしょう。
一方、建築においては、ブルネレスキにコテンパンにされたギベルティ。
彼が制作した洗礼堂の扉〈天国の門〉は、若き日のミケランジェロに絶賛され、現在でもブロンズ鋳造の技術は高く評価されています。
(例:天国の門→link1425~1452年)
ギベルティの工房からは、
・ドナテッロ(彫刻家)
・ウッチェロ(画家)
など、初期ルネサンスを彩る芸術家たちも多く出ています。
ルネサンスとは、良くも悪くも個性的で我の強い人々が時にぶつかり合い、時に影響し合いながら作り上げていった――人類叡智の最高峰とも言えるでしょう。
そんなルネサンスの始まりを見つめ、象徴ともなったサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
イタリアに行く機会があったら、是非、訪ねてみてください。
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文:verde
【参考】
高階秀爾『フィレンツェ―初期ルネサンス美術の運命(中公新書 (118))』(→amazon)
森田義之/ジョルジョ ヴァザーリ『ルネサンス彫刻家建築家列伝(白水社)』(→amazon)
ロス・キング『天才建築家ブルネレスキ フィレンツェ・花のドームはいかにして建設されたか(東京書籍)』(→amazon)
杉全美帆子『イラストで読むルネサンスの巨匠たち(河出書房新社)』(→amazon)
池上英洋『ルネサンス 歴史と芸術の物語(光文社新書)』(→amazon)
船本弘毅『知識ゼロからの教会入門(幻冬舎)』(→amazon)
フィリッポ・ブルネレスキ/wikipedia
ロレンツォ・ギベルティ/wikipedia
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂/wikipedia
サン・ジョヴァンニ洗礼堂/wikipedia