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【ショパン】
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最後の大仕事はヴィクトリア女王の御前で演奏
マヨルカ島で思うように療養ができなかったショパン一行は、次にスペイン・バルセロナやフランス・マルセイユなど、比較的温暖な土地で静養を図りました。
そちらでやっと回復できたのはいいのですが、今度はサンドとショパンの関係が徐々に悪化しはじめます。
当人同士だけでなくサンドの娘の異性関係も絡んで、非常にめんどくさいことになっていたようです。
事態を見かねた共通の友人たちが間に入ったりもしたのですが、結局復縁することはありませんでした。
……でもこれ、さんざん療養に付き合わせた女性を気遣ってやらなかったショパンに結構な割合で非がありますよね。サンドも割と奔放な女性でしたので、全く悪くないわけでもありませんでしたが。
男女の関係は複雑怪奇ということでしょうか。
この静養旅行と異性関係でのゴタゴタとの間に、世間からショパンへの評価は下火になりつつありました。
38歳の頃には階段の上り下りに介助を必要とするほど体が弱っていたため、あまり社交界にも出なくなっていたのでしょう。
最後の大仕事は、ロンドンでヴィクトリア女王の御前で演奏するというものでした。
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ショパンとヴィクトリア女王が同じ時代の人だというのは、意外というか想像がつきませんね。
気力を振りしぼってパリに戻ったショパンは、寿命を悟り、最後に家族に会いたいと強く願うようになります。
そこで姉・ルドヴィカにパリへ来てくれるよう手紙を送りました。
「嚢胞性線維症」という難病説も
この頃には友人たちも最後の別れをしようと訪ねてきましたが、病室へ通されたのはごく一部だったようです。
最後に医師が病状を確認したのは亡くなる2時間ほど前のことだったのですが、
【ショパンの体の上に乗りかかって「苦しいか?」と尋ねた】
そうで……明らかに病人に対する態度じゃないと思うんですが、どういうことなの(´・ω・`)
まぁ、ショパンは「もう何も感じない」と答えたようなので、最終確認ということだったのかもしれませんが。それにしたってやり方があるやろ。
ショパンの死因は肺結核といわれていましたが、最近では「嚢胞性線維症」という難病だった説もあります。
欧米の白人に約1/2,500で発生する遺伝性疾患で、各所の体液が粘度を増してしまい、諸々の病気を引き起こすという病気です。
とはいえ、嚢胞性線維症は現代の医療技術でも30代くらいまでしか生きられないため、19世紀にこの病気になっていたとしたら、39歳までは生きられなかっただろうともいわれています。
そのため、今のところは肺結核説のほうが有力なようです。
肺結核は感染症ですから、それならそれでショパンの周りの人も同じ病気になっていないとおかしいような気がしますが……その辺はこれから明かされていくかもしれませんね。
心臓はコニャック漬けにされ教会の柱の中に……
ショパンの心臓は、遺言により姉ルドヴィカによって故国ポーランドに持ち帰られ、コニャック漬けにされたあと教会の柱に埋め込まれたそうです。
「心は故国に」といった意味合いなのでしょうが、なかなかにグロテスクというか何というか。
キリスト教って死後の復活のために火葬をしないのに、遺体の扱いが適当というかスゴイですよね。
何か理由があると思うのですけれども。
体のほうはパリ東部にあるペール・ラシェーズ墓地に葬られました。
ここは各方面の著名人が多く眠っているので、今では観光地といっても過言ではない場所になっています。
ショパンのお墓も、たくさんの花が供えられている写真がよくでてきます。
短い人生ではありましたが、自分の曲が今も愛されていることや、花を供えてくれる人がいることで、少しは穏やかな気分になれているといいですね。
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長月 七紀・記
【参考】
三枝成彰『大作曲家たちの履歴書(上)』(→amazon)
フレデリック・ショパン/Wikipedia