帝政ロシアの美の象徴「エカテリーナ宮殿」

ロシア

帝政ロシア・ロマノフ朝が滅亡しロシア革命が起きるまで


皇帝暗殺

1881年3月1日――。
事件は突如起きました。

エカテリーナ運河を通っていた皇帝の馬車の横で、爆発物が炸裂したのです。

皇帝が乗る馬車の横で爆発物が炸裂/wikipediaより引用

こうした場合、ターゲットはその場を離れることが鉄則。
しかしアレクサンドル2世は馬車を降り、負傷したコサック兵を勇気づけようとしました。

暗殺者の爆弾は、容赦なくアレクサンドル2世を引き裂きました。
おびたただしい出血をした皇帝は冬宮に移送されるものの、数時間後に崩御。享年62。

暗殺者の爆弾に斃れるアレクサンドル2世/wikipediaより引用

彼は、暗殺に斃れた最後のロシア皇帝ではありません。
ロシアの皇族たちには、ますます厳しい運命がふりかかることになります。

暗殺を実行したのは、「人民の意志」派でした。
6名の暗殺犯が逮捕され、暗殺の僅か一ヶ月後に全員が処刑。
「治安維持法」が制定され、危険人物の取り締まりは一層強化されることとなりました。

処刑される「人民の意志」派メンバーたち/wikipediaより引用

 


ツァーリ、苦しみの玉

皇帝暗殺の衝撃からさめやらぬまま、1881年、アレクサンドル3世が即位します。

こうした状況の最中に、悲劇的な扱いを受けたのがユダヤ人です。

皇帝暗殺に関与したとされ「ポグロム」が発生。
ロシア人たちはユダヤ人の経営する店や酒場に襲いかかり、虐殺に及びました。弾圧を逃れてアメリカに移住する人もいましたが、それが叶わぬユダヤ人はロシアで息を潜めて生きるほかありません。

ロシア革命の原動力となった者の中に、トロツキーはじめユダヤ系の人々がいたのは、決して偶然ではないのです。

トロツキー/photo by Bundesarchiv wikipediaより引用

アレクサンドル3世は、先帝のやり残した改革に取り組む必要がありました。

シベリア鉄道建設。
ヴィッテを起用して、工業化への着手。

アレクサンドル3世は豪快な性格をしていたとされますが、ストレスは相当の者だったのかもしれません。
彼はウォッカを隠れて飲み続け、そのせいか腎臓を悪化させてゆきました。
そして1894年、49才の若さで崩御。

後継者は、まだ26才のニコライ2世でした。

アレクサンドル3世の最期を描いた絵画/wikipediaより引用

 


血塗られた戴冠式、呪われた血

若き皇帝は、即位当初、いやその前から呪われているかのようでした。

訪問先の日本では「大津事件」に遭遇。

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戴冠式の直後には、民衆が記念品の食べ物を求めて殺到し、将棋倒しとなってしまいます。
犠牲者が多数出たにも関わらず、悲劇の夜には舞踏会が開催されました。

かくして戴冠式の当初から、ニコライ2世には人々の憎しみの目が向けられたのです。

それだけではありません。
夫である皇帝の傍らに立つ皇后アレクサンドラの体内には、ヴィクトリア女王由来の血友病因子が流れてもおりました。

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結婚から十年目。
待望の男児がうまれたとき、皇帝夫妻はこの病魔が我が子を襲っていたことに気づくことになるのでした。

 

帝国の黄昏

1900年、清で「義和団事件」が勃発。
この事件への出兵を契機に、日露間で緊張が走ります。
もともと領土が接していたうえ、満州と朝鮮半島の権益をめぐり、緊張関係が高まったのです。

しかも日本は、1902年の日英同盟で後ろ盾を得ます。

かくして衝突は不可避。
1904年、日露戦争の幕が切って落とされました。

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翌1905年。
ロシアでは十万人にもおよぶ労働者とその家族が、改革を求めて冬宮へと行進。
群衆めがけて兵士たちが発砲すると、女性や子供まで含めた千名の血が流れ、雪を染めるのです。

1905年のモスクワ(群衆と向き合う兵士たち)/wikipediaより引用

人民はもはや皇帝への愛を失いました。

それから数ヶ月後、ロシアはまだも血を流します。
「日本海海戦」は彼らにとって大きな悲劇でした。

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バルチック艦隊とともに、帝政ロシアの栄光は海の藻屑となり、消えていったのです。
かつてナポレオン艦隊が「トラファルガーの戦い」で壊滅した、その敗北に匹敵する大敗でした。

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日本にとっては快心の勝利。
されどロシアにとっての無残な結果は、彼らに苦い現実を突きつけました。

巨大なヒグマは、もはや満身創痍である――。

6月、戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こします。
兵士の反乱は命がけであり、恐ろしいことです。それでも彼らは赤旗を掲げ、抵抗したのでした。

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ニコライ2世に残された選択肢は、もはや休戦しかありませんでした。

アメリカの斡旋により、8月には和睦交渉を開始。
ヴィッテの辣腕により、比較的損失が軽いまま終戦にこぎつけたことが、唯一の救いだったでしょう。

しかし帝国の崩壊は、もはや止めようがない惨状となっていたのです。

ロシア帝政は倒れ、ここから先は革命の歴史へと突入してゆきます。

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1918年7月17日。
エカテリンブルクのイパチェフ館で、皇帝一家は処刑されました。

彼らは射たれ、銃剣で突かれ、銃床で殴打され、惨殺されたのです。
それは、黄金の輝きを持っていた巨大な帝国、三百年の歴史を持つロマノフ朝の、あまりに哀しい最期でした。

文:小檜山青

ニコライ二世一家/wikipediaより引用

【参考文献】
『ロシア史』和田春樹編
『図説 帝政ロシア』
『世界の教科書シリーズ ロシアの歴史 下』
『世界大百科事典』


 



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