戦国期の築城術は要害を構えて侵されないことが超基本! 陰陽師とか関係ありゃーせん

本日は、前回(【山城・平山城・平城】 正しい見方とは?)

山城・平山城・平城の違いとは?築城された時代ではなく地形に左右されます

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に引き続き、城にまつわる誤解を紐解いていきましょう!

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-5

 

城は要害であることが何より肝要

みなさんは「四神相応(しじんそうおう)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

東に川(青龍)、西に道(白虎)、南に窪地(朱雀)、北に山(玄武)というアレ。奈良時代以来の陰陽の思想ですが、実はこれ、城にとっては後世の軍学者(江戸時代)による後付けに過ぎません。

中世に記された「築城記」では、戦国時代の築城においては攻撃精神の塊のような軍事的側面しか強調されていません。

しかし乱世では「要害を構えて侵されない」ことが築城思想の基本であり、城の立地の要点はこれ以上でも以下でもないのです。

 

戦国後期になると城下町ありきの考え方へ

しかし戦国時代も後期に入ってくると、城の周囲を町割りして、城下町とセットで城の縄張を考えるようになります。
江戸時代の謙信流築城術の軍学者は「西に原野、南に田畑、北に山林、もし東に流水がなければ水をひくこと」が理想だと言っています。
このような地形は西北が高くて東南が低いので、夏は涼しく、冬は暖かい。また物資に不足もしないのでその土地は繁昌するとしています。

そうです。これは既に城ではなく城下町ありきなのです。また、この考えは四神相応の思想がなくても人間なら誰でもそう思うでしょう。

例えば現代でも物件を選ぶときは、南側が開放していれば日当り良好ですし、西北が陰になれば、真夏に西日が入りにくく、冬は北風もしのげます。
さらに南とは言わず、近くにコンビニ(田畑)があって、ついでに駅近だったらもう完璧な物件ですね(笑)。

しかしこの四神相応を日本の気候風土に都合よく合わせたような謙信流の立地さえもあくまで理想。
世の中そうそう良い物件・・・、おっと、失礼、良い立地はありません。

 

◆駿府城

駿府城縄張り/国立国会図書館蔵

平城だけに完全な平野部。城だけではなく駿府の城下町全体でみても四神相応は当てはまりません。北に山はありますが、安倍川は駿府の町の西を流れています。

ということで、城造りは合理的な判断に基づいた立地が第一で、これを後世の軍学者が後付けで四神相応などの思想に当てはめているに過ぎません。

うーん、夢も希望もない! リアルなサバイバルをしている戦国時代の人々にとって陰陽の呪術は既に頼るべきものではなくなっているんですね。

 

信長や秀吉に弾圧され姿を消した陰陽師

ちなみに平安時代から室町時代まで存在した陰陽師は戦国時代の京の都の荒廃とともに実質日本の歴史から消えました。さらに追い打ちをかけるように信長や秀吉が陰陽師を弾圧しまくります。

戦国時代にはライフゼロになってしまった陰陽思想を戦国武将が知り得るはずがありません。

じゃあ最近の陰陽師ブームは何なんだ!? という疑問は当然湧いてきますが、多くは江戸時代に書かれた若干怪しげな文書に基づいています。
これ以上、城を離れてあちらの世界の真相に踏み込むのはやめときま、グフっ、だ、誰だ!き、貴様は、生きていたか。お、陰陽、ぐへっ・・・再起不能。かわいそうなお城野郎の胸元には五芒星の傷跡だけが残されていた・・・。

と、冗談はこのくらいにして、と。

 

鬼門なんて怖くねーわ! by 戦国武将

そんな中でも、なぜか北東と南西の角を切り取る日本独特の鬼門と裏鬼門の思想だけは残ります。
鬼門だけは築城に携わった職人たちに、何となく継承された様式だったのかもしれません。

しかし戦国時代の城には鬼門に挑むように北東と南西にあえて不浄なトイレを設置するような城もあり、戦国武将たちは鬼門などちっとも恐れていません。

「鬼でも悪霊でも何でもかかってこいや!」的な戦国時代のノリは、とてもいいですね。

江戸時代の軍学者同様、現代の我々も陰陽思想がお城に見え隠れしていると確かにおもしろいので、「おお東に川があって北に山があるぞ」とか「北東の面がキレイに切り取ってるねえ。鬼門除けだよ、これは」なんて、つい陰陽思想をダブらせてしまいますが、戦国時代の人に言わせれば「陰陽?何それ食えるの?こっちは生き死にがかかってんだぞ、このゆとりが!!」と怒られてしまうかもしれません(笑)。

結局、お城はその土地の地形をどう生かすか。そして大原則は「要害を構えて侵されない」城であること。これが戦国時代の縄張、築城の基本なのです。

 

◆中津城

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向かって右が北です。四神相応(笑)的な黒田官兵衛築城の「中津城」。築城名人と言われる「軍師」様でさえこの縄張りです。

 

◆福岡城

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ちっともブレないのが黒田官兵衛と長政父子。こちらは「福岡城」。何となく定石の「北東の鬼門になんちゃら」は一切無視。この何物にも捕われない発想こそが黒田父子の強さなのでしょうね。

 

◆岩槻城

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もうぐっちゃぐちゃの「岩槻城」です。最近の研究から築城は太田道灌ではない説が有力です。

しかし知識人太田道灌でも四神相応を採用したでしょうか。強過ぎて主君に殺されたくらい戦名人でもあった太田道灌なら、現実的に考えてこの地形をうまく利用したでしょうね。この絵図だけでも1時間は妄想が膨らみます。

 

◆竹田城

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天空の城「竹田城」。築城初期は北東に大手門を造りましたが、「鬼門はよくないらしいゾ」と南東に大手門を移しました。ブレ過ぎです(笑)。

おっと、今日はここまで。

軍学者と築城名人の誤解を解くのは、さらに次回へ持ち越しましょう。

 

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 



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