本郷和人東京大学教授

本郷和人の歴史ニュース読み

直虎女性説は『井伊家のタブー』から?東大教授・本郷和人の歴史ニュース読み

大河ドラマ『おんな城主 直虎』の放送を前にして、突如注目された井伊直虎の男性説。

当連載の東京大学・本郷和人教授は、歴史学の観点から「女性というより男性と考えるほうが自然だ」と、前回までの記事でご考察いただいた。

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では、なぜ、女性説を唱えた『井伊家伝記』ではそのような主張をしたのか? あるいはせざるを得なかったのか?

今週は、直虎の出自について更に深掘り!

himesama姫さまくらたに

「前回の内容を簡単にまとめてみましょう。古文書を読んでいくと、どうも『井伊家伝記』は信頼性の低い史料であると評価せざるを得ない。そうすると、直虎が女性であるという根拠は『井伊家伝記』しかないので、これがどこまで信用できるか分からない、ということね」

本郷くん1

本郷「そうだね。歴史学のセオリーからするとそうなるね」

「でもね、仮にそこまでは認められるとしたらね、もう一つ、どうしても答えなければならない問題が出てくるでしょう。もし直虎が普通に男性だったとしたら、『井伊家伝記』はなぜそのようなウソをついたのか。この疑問に納得のいく説明をできないと、イヤやっぱり直虎は女性だったんじゃないのかな、ということになるわよ」

本郷「うーん。厳密にいうと、今のあなたの突っ込みは適切ではないと思う。それはね、そうだなー、上杉謙信は女性だという説を例にしてみよう。もしフィクションではなくて、本気で謙信は女性だといいたいのなら、そう主張する人こそが説明責任を果たすべきでしょう? 井伊直虎も同じだよ。直虎といえば男性の名前だし、井伊谷の領主として働くことも通常は男性の仕事だよね。他に女性の領主がそれなりにいたのなら別だけれど、文書に名前が記されている『おんな城主』は今のところ立花誾千代だけ。史実としてはそうなんだ。とすると、井伊直虎という人がいて、その人が女性であると解釈するのは『普通ではないこと』になるわけだから、その普通ではあり得ないことを納得してもらおうとする『井伊家伝記』こそが、もっと丁寧に、直虎=女性と捉える根拠を示さないといけないはずなんだ」

「『井伊家伝記』の記述は、歴史学的に信用されなくてもしかたがない、ということね。まあ、理屈からすればそういうことになるのかもしれないけれど、ほら世の中それじゃあ通らないのよ。もったいぶらずに、あなたの方から歩み寄って、『井伊家伝記』が直虎をむりやり女性にしなくてはならなかった理由を考えてよ」

本郷「はいはい。了解しました。うん、ぼくは直虎(男)の存在は『井伊家のタブー』にひっかかるため、ではないかと推測するんだ」

「『井伊家のタブー』? 初めて聞くわね。それはどういうこと?」

本郷「それを説明する前に、まずは年齢から確認しておこう。これまでは井伊直虎は天文5年、1536年ごろに生まれたと考えられてきた。だけど古文書を読んでみると、だいぶそれよりあと、天文22年、1553年ごろの誕生だろうと考えられるね。あるいはもう少し後の生まれであっても良い。一方で井伊直政は永禄4年・1561年生まれだ」

「ということになると、直虎が直政の養母になる、的な年齢差ではあり得ない、ということでOK?」

本郷「そうなんだ。直虎が男性にせよ、女性にせよ、直政を庇護する立場ではなかったはずだ」

「むしろ、兄あるいは姉かな。そんな存在よね」

本郷「それを前提に、直虎が男だとするとね、直虎と直政は井伊家の当主の座を争うライバルにならないかな」

「家督をめぐって兄弟で殺し合うとか、一族で血を流すとか、戦国時代にはしばしばある話よね」

本郷「それで、『井伊家のタブー』なんだけどね。関ヶ原の後、井伊直政は彦根18万石を与えられるでしょう?」

「うん。それは知ってる。石田三成の旧領を与えられるのよね。それで譜代大名№1の座をますます揺るぎないものにする。だけど、関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで、そのあとすぐに亡くなるのよね」

本郷「そう。それで跡を継いだのが長男の直継。この人は正妻の子だ。ところがね、若年の直継は井伊家中をまとめきれなかったんだ。すると、ここへ徳川家康が介入してくる」

「大坂に豊臣秀頼が健在なんだものね。西国に多い豊臣恩顧の大名の動向も気にかかるところだし、徳川の先鋒をつとめる井伊家に争いがあったら、家康としては困っちゃうわよね。それで積極的に口を挟んできたんじゃないの?」

本郷「うん。そうらしい。それでね、慶長15年、1610年に直継は『病弱』を理由に上野・安中3万石に左遷される。彦根の15万石(従来の彦根18万石から、安中3万石の分家を成立させた、という考え方)は弟の直孝が継いだ。そしてこの直孝が一代で15万石の加増を受けて、井伊家を大躍進させるんだ」

「へー。直孝はすごく優秀だったのね」

本郷「おもしろいことに、病弱なはずの直継は直孝より長生きした」

「あら、良かったじゃない。健康が一番よ。それで、その安中領はどうなったの?」

本郷「何度かの転封があって、最後は越後・与板2万石かな。とりあえず続いて、明治維新を迎えたんだ」

「うーん、それで、その何が『タブー』なのかな?」

本郷「どうもね、直継の左遷は、井伊家の根本に関わる大事件だったらしい。というのは、井伊谷からの井伊家の家臣たちは、直継につけられて、安中に移っているんだ」

「あらら! じゃあ、彦根の井伊家って、名前こそ井伊だけど、戦国時代の井伊家とはまるで違う存在ということなの?」

本郷「そうらしい。直継は名前も直勝と変えて、幕府政治に関わることもなく、ひっそりと生きていったわけだ。彦根の方では初代が直政、二代目は直孝という数え方をする」

「えええ。直継は存在自体を否定されちゃったわけ? しかも井伊谷の人たちは井伊家の栄進の喜びを分かち合えなかったの? なんだか、かわいそうね」

本郷「うん。直孝は側室の子で、お父さんである直政に冷遇されていた。『親子の対面』すらなく、子どもの頃は当時の本拠である高崎城にも入れなかったんだ」

「ずいぶん、差別されたのね。それはまたどうして?」

本郷「うん、ぼくには仮説があるけれど、それを話すとまた長くなるから、今は事実だけで勘弁ね。でも、こうした育ち方をした直孝が兄の存在を抹消したとなると、これはなんか怨念のようなものの存在を感じない? 自分に冷たかったお父さんの態度はトラウマになっただろうし、彼はお父さんの故郷である井伊谷自体が嫌いだった可能性もあるね」

「そういういきさつがあると、そう思えるわね」

本郷「そうするとね、彦根の井伊家って、兄を斥けて成立しているわけでしょう。それで気になるのが、直虎と直政の関係だ。血筋から言うと、嫡流は直虎だよね」

「ああ、そうか。嫡流の直虎を何らかの契機で排除して直政が当主になったとすると、それは直継と直孝の関係に重なるんだ。どこかの王朝の最高権力者がお兄さんを亡き者にして話題になってるけれど、そんな兄の廃立を想起させるわけね」

本郷「そうなんだ。直虎が男性だとして、どのように生きたかは資料は全く語らない。けれども、かりに直政が直虎に代わって当主になった、しかも、平和的ではなく、という事態があったとすると、これはまずいことになる」

「なるほどね。その辺りの微妙な関係に触れたくないもんだから、『井伊家伝記』は苦しまぎれに、『直虎は女性だったんですよ』と小説のようなことを言い出したんじゃないか。直虎から直政へ、というのは、スムースなバトンタッチだったんですよ、と言いたかった。そう考えるわけね」

本郷「あくまでも、可能性の一つだけれどね」

「ふーん。じゃあ、あなたは具体的には、直虎は幼くして家督を継いだ後、どういう人生を送ったと思う?」

本郷「うん。その問題を考察するポイントはね、『井伊谷三人衆』だと思っているんだけど、詳しくは次回にお話ししましょう」

「長くなったからね。はいはい、では次回もよろしくね」

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