慶長7年(1602年)2月1日は井伊直政の命日。
赤備えを率いた徳川きっての猛将であり、徳川四天王の一角にも数えられたりするが、実はこれ、かなりの快挙といえる。
というのも井伊家はもともと三河の譜代でもなく、いわば国衆出身のポジションであり、そこから30万石の大名にまで昇り詰めた徳川政権でも稀有な存在なのだ。

井伊直政石高の推移・300石から始まり30万石へ(奥浜名湖観光協会主催「直虎セミナー」)
なぜ、そのようなスピード出世を叶えられたのか。
大河ドラマでもたびたび注目される井伊直政(虎松)の生涯を振り返ってみよう。
幼少期は親戚宅や寺をたらい回し
静岡県浜松市井伊谷にある龍潭寺。
ここには彦根城四百年祭のときに建てられた
「徳川四天王 井伊直政公出世之地」碑
がある。
平成19年10月29日に除幕されたもので、同地を訪れる観光客からは「ここで生まれたんだぁ」なんて声もたまに聞こえてくるが、井伊直政は井伊谷の生まれではない。
出生地は祝田(ほうだ)の井伊直親屋敷。
龍潭寺には以下のような案内板も設置されているが、あくまで「出世の碑」である。

井伊直政案内板(全文は記事末に掲載)
井伊直政は、井伊家23代宗主・直親の子であった。
母は、奥山朝利の娘・ひよで、彼女は井伊家の庶子家出身。
結婚後、五年目たっても子が授からなかった2人は、龍潭寺の南渓和尚に祈祷を頼んだり、祝田の大籐寺(後に直親の菩提寺)ご本尊「世継千手観音像」に祈願したりしていると、願いが叶ったのかようやく嫡男を授かる。
幼名「虎松」。
後の井伊直政である。
※大藤寺は「子授けの寺」として賑わうことになる

世継千手観音像(奥浜名湖観光協会主催「直虎セミナー」)
後世の贋作である可能性は否めないが「今川家分限帳」によると、井伊直政は、計4万石の所領を父・直親(伊井肥後守)と井伊宗主の直盛から引き継ぐはずだった。
井伊宗主とは直虎の父・井伊直盛のことであり、井伊直虎の実父でもある。
しかしこの直盛が桶狭間の戦い(1560年6月)で殉死すると、同家と井伊直政の運命はにわかに狂い始めた。
まず父の井伊直親が23代宗主になった途端
──徳川家康と内通している――
と讒言され、今川氏に誅殺されてしまったのだ。
このとき虎松はまだ2歳。
非情な戦国の世にならい、虎松も父と同様に殺害命令が下されながら、すんでのところで命を拾う。
どうやって命が救われたのか? 救出劇の真相については未だ不明である。
というのも、以下のように
「今川重臣・新野左馬助が引き取ると申し出た」
「鳳来寺へ逃げた(さらに信州までとも)」
と2つの説があり、井伊直政の伝記には『幼少期は親戚宅や寺をたらい回しにされた』という曖昧な記述だけで済まされている。
たらい回しとはいかにも可哀想な幼少期だが、この苦難の経験があったからこそ後に大出世を果たせたのかもしれない。
直虎や母が住んだ松岳院で成長
以下の写真は松岳院跡地である。
松岳院とは、井伊直虎の母である千賀のことだ。

松岳院跡地

松岳院跡地案内板
彼女は夫の死後、髪をおろして仏門に入り、松岳院という法号で龍潭寺境内に庵(いおり)を建て、亡き夫・井伊直盛の追善供養に勤しんでいた。
江戸中期に彦根の絵師が描いた龍潭寺境内図には、松岳院の建物も記されている。
そして桶狭間から8年後の1568年。
今川氏真の命令で、井伊谷領内での徳政令を受入れた井伊直虎が出家して「祐圓尼(ゆうえんに)」と名乗り、龍潭寺に入ることで命を許されると、祐椿尼(ゆうちんに)と名乗っていた母と共に松岳院での生活を開始。

「梛の木」と「子育て地蔵」

「梛の木」案内板(※1 記事末に掲載)
さらには虎松と、虎松の母ひよも加わり、女子供ばかりで心細い井伊の生き残り4名は、この寺の敷地内で、静かに息を殺して暮らすしかなかった。
井伊直政の母はこのときお地蔵さまを造り、ひそかに境内に祀(まつ)リ、その傍らに神木「なぎ」を植え、我が子の安泰を念じる日々だったという。
鷹狩りの家康を見計らってドラマ的な演出を
松岳院での安寧は、すぐに終わりが来る。
井伊直虎が地頭でも井伊谷城主でもなくなり、小野政次が井伊谷を領すると(要するに「下克上」を為すと)、直虎や虎松は殺されることになったのだ。
直虎は、以前のように「次郎法師」という僧名ではなく、もう還俗は許されない「祐圓尼」という尼の名で出家し、虎松もまた「出家する」と偽って浄土寺へ逃げた。
それでも虎松は、更に危険を感じ、今度は浄土寺の寺僧・珠源(「守源」とも表記)と共に鳳来寺へ逃亡している。

虎松がいたという鳳来寺の日輪院跡
一方、徳川家康は、井伊谷城を接収し、引馬城(後の浜松城)へ。
徳川にとっては、これが遠州進出への第一歩であった。
このとき井伊谷城にいたのは直虎から所領を奪った小野氏であり、家康はてっきり井伊家が滅んだと勘違いしたようだ。
そして迎えた天正元年(1573年)。
虎松の将来を見据え、その保護に努めていた直虎と直虎の母、そして虎松の母は、南渓和尚と共にある決断に至る。
虎松を、ひよの夫・松下清景の養子とし、徳川家康に仕官させることにしたのだ。

徳川家康/wikipediaより引用
虎松は14歳。
年齢的には十分であり、破竹の勢いの徳川家に仕えさせることは、井伊家再興のチャンスとしては願ったり叶ったりな環境だった。
むろんリスクもあるにはある。
松下清景の養子になるということは、一時的にも井伊虎松から松下虎松になるということであり、名目上は井伊家が滅亡することである。
それでも他に妙手は考えられない。
そもそも家康に仕官できるかどうか。
これは大きな賭けであったが、ここで動いたのが他ならぬ井伊直虎であった。
鷹狩好きな家康に狙いを定め、天正3年(1575年)2月15日、初鷹野(その年の最初の鷹狩)に出たタイミングで、虎松をその前に差し出したのである。
井伊直親の実子、取立不叶
遠くからでも目立つよう、虎松には、直虎と実母・ひよであつらえた着物を身につけさせ、さらには直虎自筆の『四神旗』も持たせていた。
このドラマ的な演出は、見事に的を射て、虎松は浜松城へ連れていかれる。

ライトアップされた浜松城
むろん、このときの詳細な会話は残されていないが、滅びたと思っていた井伊家の跡取り男児が目の前におり、しかもそれは、かつて桶狭間の戦いで共に先鋒を努めた井伊直盛の親類であったことも家康の琴線に触れたであろう。
井伊直親の実子だと知った家康は、こう言ったと伝わる。
井伊直親の実子、取立不叶(取り立てずんば叶わじ)
【意訳】家臣として召し抱えないわけにはいかない
かくして再興を許された虎松は、これを機に「井伊万千代」と名乗り、同家の再興を叶える。
扶持は300石。16人の同心衆も付けられた。
この優遇は、当日の家康の気分が良かったことに加え、井伊家が平安時代から続く名家(藤原庶子家)であったためと思われる。
徳川家康は源頼朝を尊敬し、愛読書は『吾妻鑑』であったから、井伊氏が鎌倉時代の「日本八介」であったことは、当然、知っていた。
新井白石『藩翰譜』には次のようにある(原文は記事末の※2に掲載)。
虎松(後の井伊直政)が15歳であった天正3年(1575年)2月15日、徳川家康は、鷹狩のため浜松城を出た。
すると道端に控える虎松を見つける。
「面魂」(気迫あふれる顔付き)が尋常ではなく「普通の子ではない」と思って、「どのような素性の子か、誰か知っているか?」と尋ねると、「よく知っている人」(松下常慶か?)がいた。
「この子こそ、井伊家23代宗主・直親の遺児でございます」
そう虎松の素性を詳しく伝えると、「(徳川に内通して誅殺された直親の子とは)不憫である。儂に仕えよ」と言って仮採用してみる。
と、「さすがに、井伊家の子だけあって、頼もしい」と、頓(やが)て本採用した。
一方、『直政公御一代記』には次のように記されている(原文は記事末の※3に掲載)。
(家康は、虎松を)鷹狩の狩場から直に浜松城へ召し連れ、小姓に取り立て、御台所の前に仮の部屋を与えて、16人の同心衆を付けた。
その中に「金阿弥」という目付坊主(小姓の下で衣食の世話をする御城坊主。直政の家庭教師とされる)がいた。
この金阿弥は、後に「花居清心」(三河の「花井氏」であるが「井伊氏」に憚って「井」を「居」に変えたという)と改名し、300石の文官となり、直政が死んで直継が継ぐ。
と、お暇をもらって在所(三河)に引き籠っていたが、直孝の代には、月見の宴に度々参上したという。
家康へのお目通り叶って300石の扶持を得た万千代は、すぐさま頭角を表した。
伊賀越えからの清州会議
まずは翌年「柴原の戦い(芝原とも)」で間者を討ち取り、3,000石へ加増されると、更に田中城攻めの武功で1万石へ。
このままトントン拍子に5万、10万と増えるかと思ったらそれほどに甘くはなく、程なくして桶狭間に続く戦国時代の一大事変に直面してしまう。
【本能寺の変】だ。
天正10年(1582年)6月2日早朝、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたとき、徳川家康は、井伊直政らと堺(大阪府堺市。語源は摂津・河内・和泉国の境)にいた。
よく知られる服部半蔵だけでなく井伊直政も同行していたのだ。
伊賀国の険しい山道を経て、這う這うの体で岡崎城へたどり着いた行軍は、一般的に【神君伊賀越え】と呼ばれている。
ここで井伊直政は「孔雀尾具足陣羽織」(与板歴史民俗資料館蔵)を拝領した。

井伊直政像(JR彦根駅前)
再び『直政公御一代記』を見てみよう(※4 原文は記事末に掲載)。
天正10年(1582年)、武田氏が滅んだ。
徳川家康は、井伊万千代(22歳・この年11月に元服して「直政」と改名)ら34名と堺見物をしていたが、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたことを知る。
家康一行は、伊賀国を経て伊勢国に向かった。
途中、住民の一揆が起きたが、万千代と長谷川秀一が計略を以って宇治田原の山口城主・山口甚介秀康、続いて信楽小川の小川城主・多羅尾光俊を味方にしたので、一行は伊勢国白子(三重県鈴鹿市)にたどり着くことができた。
そこからは海路を行き、岡崎城に無事帰還できたのである。
この間、万千代は、昼夜を問わず、家康を警護したという。
そして明智光秀が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって討たれると、6月27日、信長の跡継ぎを決める話し合いが清州城で持たれた。
【清州会議】である。
天正壬午の乱
織田家の跡取り三法師(後の織田秀信)の名代を決める清州会議――。
信長の嫡男・織田信忠も二条新御所で死亡しており、後継者はその嫡男である三法師となる。
問題は、三法師が成人するまでの名代を誰が務めるのか。
二男の織田信雄か、あるいは三男・織田信孝か。
結局、力が拮抗していた両者では決定的な差とならず、三法師を守る者は堀秀政となり、残された織田領を兄弟や重臣たちで納得いくよう分配することが決められた。
この会議に徳川家康は参加していない。織田信長の死により空白地帯となった旧武田領で、北条氏直らと争っていたのだ。

北条氏直/wikipediaより引用
【天正壬午の乱】である。
この争いは、本能寺の変と同年の10月29日、徳川と北条で講和が結ばれ、約5ヶ月の後に終結した。
徳川は、三河・遠江・駿河国に加え、織田遺領の甲斐・信濃国を確保し、五ヶ国を領有する戦国大名となったのである。
このとき徳川側の交渉人(ネゴシエーター)に選ばれたのが井伊直政で、この功により4万石へと加増。
ちなみに、北条側の交渉人は北条氏規(駿府での人質時代、家康の家の隣に住んでいて、家康とは仲良がよかった人物)であった。
井伊直政は11月、まるで井伊直虎の死を待っていたかのように元服し、井伊家第24代宗主「直政」と名乗ると、松平康親の娘(徳川家康の養女)・花(後の唐梅院)と結婚した。
※結婚については、天正12年(1584年)説もあり
小牧・長久手の戦い
「清州会議」で三法師の後見人となり、明智光秀を討った豊臣秀吉の存在感が増すと、疎外された信長の二男・織田信雄は、家康との同盟を選んだ。
秀吉 vs 信雄・家康の戦い。
天正12年 (1584年)3月に起こったこの合戦を【小牧・長久手の戦い】という(長久手は「長湫」とも表記)。
天正12年3月13日、池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り、犬山城を占拠すると、家康(徳川軍)は3月15日に小牧山城へ。
以後、睨み合いの膠着状態が続き、先に動きを見せたのは羽柴軍であった。
「三河中入」という作戦を決行したのである。

三河中入と長久手の戦い(岩崎城の案内板)
「三河中入」とは、家康不在の岡崎を襲って後方撹乱するという作戦であり、その軍勢は以下のような規模であった。
◆三河中入軍2万の内訳
※羽柴軍は全体で15万人
第一隊:池田恒興(6000人)
第二隊:森長可(3000人)
第三隊:堀秀政(3000人)
第四隊:羽柴秀次(8000人)
徳川方の重要拠点を衝くべく、先頭を進んだ池田恒興が岩崎城(愛知県日進市)で戦っていた時(「岩崎城の戦い」)、最後尾の羽柴秀次隊は、白山林(名古屋市守山区~尾張旭市)で休息しており、そこへ家康軍の奇襲が襲いかかった(「白山林の戦い」)。
しかし、羽柴秀次隊の前にいた堀秀政隊がすぐさま引き返して、徳川軍を討つと(「桧ヶ根の戦い」)、これが羽柴軍唯一の勝利となり、以後は羽柴の敗戦が続くことになる。
井伊の赤備えと「突き掛かり戦法」
織田・徳川連合軍の本隊は、色金山(長久手市岩作色金)に入り、そこで別働隊の戦勝と敗退を知った。
そして岩作から富士ヶ根へ移ると、羽柴秀次隊は家康の馬印である金扇を見て、「不利だ」として北へ逃げる。
池田・森隊は岩崎城から引き返し、富士ヶ根から前山に移った織田・徳川連合軍との間で「長久手の戦い」が繰り広げられた。
井伊直政率いる「井伊の赤備え」が森長可の隊と激突。
水野勝成(徳川内では井伊直政と並び称される勇将)の部隊が鉄砲で森長可を討ち取ると、織田・徳川軍の旗色が優勢となり、最終的には織田・徳川連合軍が勝利。
※森長可と池田恒興は安藤直次隊が討ち取ったという説も
「突き掛かり戦法」(先鋒としてがむしゃらに突撃し、敵の陣形を崩すという過激な戦闘方法)をとった井伊直政は、この戦いで「井伊の赤鬼」として名を揚げ、秀吉の後継者と目されていた羽柴秀次は名を下げる。

豊臣秀次/wikipediaより引用
翌天正13年(1585年)、 25歳となった井伊直政は、前年の小牧・長久手の戦いの武功を評価され、6万石に加増となった。
最高評価を得て箕輪12万石
小牧長久手の戦いから5年。
天正18年(1590年)の徳川・関東移封に伴い、井伊直政は箕輪(群馬県高崎市)に12万石で封ぜられた。
徳川四天王の本多忠勝、榊原康政は10万石であり、徳川氏家臣団の中では最高の評価である。

本多忠勝/wikipediaより引用
最高齢の四天王・酒井忠次は、天正16年(1588年)に隠居しており、長男・家次にはわずか3万7000石であった。
井伊直政の異常なスピード出世の理由としては、「寵童説」がつとに有名であるが、その他にも多くの説はある。
・井伊家が名家だから
・家康の正室・築山殿は井伊直平の孫だから(井伊氏系図)
・井伊直政とは実は信康のことだから(二俣城で自害したのは直政)
・容姿や性格が信康に似ていたので特別扱い
・井伊直政の本当の父親は家康だから(鈴木家文書)
・正室・花が養女とはいえ、家康の娘だから
・娘・政子が家康の四男・忠吉の正室だから
・鳳来寺や浄土寺で学び、字の読み書きが出来たから
・豊臣秀吉に気に入られたから
井伊家(藤原庶子家)は平安時代から続く名門であり、慶長5年(1600年)に18万石で佐和山城主となった時には、従四位下に任官されたという。
井伊直平の孫だという築山殿が天正7年(1579年)に謀反人(武田氏と内通)として誅殺されるまでは、井伊家ブランドが通用していたかもしれないが、いくら血筋がいいとはいえ、戦国時代では、本人の実力が伴わないと出世はできない。
では「井伊直政の実力」とは?
武力・知力・外交力の三拍子
答えは「武力・知力・外交力」である。
要するに、ただ強い「武将」であっただけではなく、頭がよく、知恵があり、「政治家」であり、「外交官」でもあった。ゆえにスピード出世が可能だったのだ。
「武力」とは、日本最強と言われた武田の赤備えを臣下に置いたこともあるが、井伊直政自身も勇猛果敢で「井伊の赤鬼」と呼ばれている。「突き掛かり戦法」では16戦16勝の猛者だ。
井伊直政は「裸一貫」で徳川家康に仕官した。
領地も持たず、家来もいない。
そこで家康は、領地を与え、家来も与えていった。
悪く言えば「家康による育成ゲーム」のようなもので、井伊家臣団とは、家康が考えた理想の最強集団である。
しかし、「寄り合い所帯」(寄せ集め集団)という側面も持っていた。
他の徳川家臣団は、三河譜代で、主家と家臣の結びつきが強固であったが、井伊家臣団は寄せ集めであるので、井伊直政は家臣の統制に一種の「恐怖政治」を採用した。

井伊直政像(井伊谷の龍潭寺)
【人斬り兵部】というのは【井伊の赤鬼】と並ぶ、もう1つの井伊直政の異称である。 自身は気性が激しく、失敗した家臣を手討ちにしていたのである。
具足を赤に統一した「赤備え」は、まずビジュアル面でのアピールが強烈だが、今風に言えば「ユニフォーム」である。
ユニフォームの着用は、戦場での敵味方の区別を容易にすることだけではなく、着用することにより「寄り合い所帯」であっても構成員の仲間意識を高め、井伊家臣団への帰属意識が生まれることに繋がる。
いずれにせよ、家康が作った理想の井伊家臣団は、最強集団でなければならず、主家の石高もそれなりにないと家臣にバカにされる。
家康は、井伊直政の石高を上げるための実績を欲しがっていたし、直政も十分承知していて頑張った。
さらに、外様(新参者)が武功をあげて出世していけば、譜代(三河武士)も、「外様ですら出世できるのであるから、譜代の自分が出世できないわけがない」と頑張るのもであり、井伊直政の出世は、譜代への意欲づけでもあった。
寺では高僧に育てるつもりだった
井伊直政の「知力・外交力」は鳳来寺で身につけた。
当時の鳳来寺は、今で言う一流大学であった。
井伊直政は、高僧(有名教授に相当)や小僧(大学生に相当)に混じって学問を習得。
「問答」は今で言う「ディベート」のようなもので、相手を論理で打ち負かす交渉術の訓練になったのである。
幼き虎松の頃から非常に優秀で、父親の十三回忌に龍潭寺に来た時、関係者で「鳳来寺には返さない」と決めたが、鳳来寺からは「このまま育てれば高僧になる。早く返して欲しい」と何度も使者が来たほどだ。
その都度、南渓和尚が追い返していたという。
子供の世界に住む大人とは、普通は両親と数人の親戚くらいである。
それで親は「人見知りのこの子が、このまま社会(大人の世界)に出て、生きていけるのか?」と心配するが、心配には及ばず、社会人となれば、やがては社交的人間に変わるものである。
井伊直政は、2歳の時から親戚や寺をたらい回しにされた。多くの大人の間で生きてきたので、元服前には既に社交性が身についていたのである。
井伊直政は、美男子でプレイボーイであった父・直親の血を引く美男子であり、「虎の目」の持ち主であった。
彦根城博物館所蔵の「井伊直政画像」を見ると目が茶色である。
心理学では、茶色の目は相手の警戒心を解き、初対面でも親しみを感じさせるという。
関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで……享年42
慶長5年(1600年)の天下分け目の「関ヶ原の戦い」で井伊直政は、黒田長政を通して多くの大名を東軍(徳川側)につけるという抜群の政治センスや外交手腕を発揮して東軍の勝利に貢献。
18万石で敵(西軍)の大将・石田三成が領していた佐和山の城主となった。

夜の関ヶ原古戦場>
しかし、この戦いで受けた銃創(鉄砲傷)がもとで発症した破傷風と併発した敗血症が原因で、慶長7年(1602年)に佐和山城で死去した。
享年42。
※井伊直政の死因(鉛中毒?)については、以下の記事「戦国時代の火縄銃で撃たれたらどんな死を迎える?」を御覧ください。
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井伊直政(&戦国主な出来事)年表
1560年 生前 桶狭間の戦いで井伊直盛が殉死→直親が井伊家当主に
1561年 1才 祝田(ほうだ)の井伊直親屋敷で井伊直政(幼名・虎松)生誕
1562年 2才 父・直親が今川氏真に殺され、自身も命を狙われる
※井伊直虎が虎松の後見人となる
1568年 8才 小野政次に命を狙われ、三河の鳳来寺へ
1570年 10才 徳川家康が浜松城へ移転
1570年 10才 信長が浅井長政に裏切られて金ヶ崎の退き口→姉川の戦いへ
1571年 11才 織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ち
1572年 12才 三方ヶ原の戦いで織田徳川連合軍が武田信玄に惨敗
1573年 13才 武田信玄、死亡
1573年 13才 槇島城の戦いで足利義昭が敗北→室町幕府終わる
1573年 13才 小谷城の戦い(織田信長が浅井家を滅ぼす)
1574年 14才 母・ひよが徳川家臣の松下家と再婚し、虎松は養子となる
1575年 15才 徳川家康の家臣に引き立てられ井伊万千代を名乗った
1575年 15才 長篠の戦い
1576年 16才 初陣・柴原の戦いで家康を襲った間者を討ち取り、加増→3,000石
1577年 17才 手取川の戦いで柴田勝家が上杉謙信に惨敗を喫す
1577年 17才 羽柴秀吉(豊臣秀吉)が中国攻めを開始
1578年 18才 上杉謙信が病没で、上杉家の内紛・御館の乱が勃発する
1578年 18才 荒木村重が織田信長に謀反
1579年 19才 安土城の天守が完成
1579年 19才 徳川家康の長男・信康が切腹に追い込まれる(築山殿も死亡)
1580年 20才 本願寺顕如と織田信長の和睦(という名の織田勝利)
1581年 21才 織田信長の京都御馬揃え
1582年 22才 本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる
1582年 22才 秀吉の中国大返し&山崎の戦いに勝利
1582年 22才 井伊直政、家康の神君伊賀越えを助け、陣羽織を拝領する
1582年 22才 徳川家が甲斐信濃の覇を巡り北条・上杉・真田と争う(天正壬午の乱)
1582年 22才 井伊直虎、死亡
1582年 22才 松平康親の娘・唐梅院と結婚
※この後、武田家の家臣を引き継ぎ「井伊の赤備え」を組織する
1583年 23才 賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝家に勝利
1584年 24才 小牧・長久手の戦いで井伊直政は森長可と激突「井伊の赤鬼」と恐れられる
1584年 24才 沖田畷の戦いで島津が龍造寺に勝利
1585年 25才 秀吉、関白に就任
1585年 25才 伊達政宗、人取橋の戦い
1585年 25才 石川数正が徳川家を出奔して秀吉の傘下へ
1586年 26才 家康、秀吉の妹と結婚
1587年 27才 秀吉による九州討伐 / バテレン追放令 / 北野大茶会
1588年 28才 秀吉による刀狩令
1590年 30才 小田原征伐 / 井伊直政は唯一、城内へ攻め込む→北条家滅亡
1590年 30才 家康の関東移封に伴い箕輪城12万石へ(群馬県高崎市)
※徳川家臣団の中では最高の石高(このとき次点は酒井忠次10万石)
1590年 30才 奥州仕置 / 葛西大崎一揆
1592年 32才 豊臣秀次が関白となる / 文禄の役(第一次朝鮮出兵)
1593年 33才 豊臣秀頼が誕生
1595年 35才 秀次事件
1597年 37才 慶長の役(第二次朝鮮出兵)
1598年 38才 豊臣秀吉が死亡・黒田官兵衛&長政親子と共に東軍への引き抜き工作
1599年 39才 石田三成襲撃事件
1600年 40才 東北の上杉討伐のため徳川軍が出陣→三成挙兵の報を聞き小山会議へ
1600年 40才 伏見城陥落で鳥居元忠が死亡
1600年 40才 第二次上田合戦で徳川秀忠の本軍が足留めを食らう
1600年 40才 関が原の戦い / 島津義弘の突撃で銃弾を受ける(島津の退き口)
1602年 42才 井伊直政、死亡
※1 龍潭寺「梛の木」
龍潭寺「梛の木」
井伊家二十四代井伊直政(幼名虎松)幼少の頃井伊家の安泰を念じて植えられた御神木です。
一五六〇年(永禄年間)当時の井伊家は、二十二代直盛の戦死、二十三代直親が誅殺され、家老小野但馬の謀反など受難の時期でした。
直政母子は龍潭寺松岳院に身を寄せ、お地蔵様を祀りその傍らに「なぎの木」を植えて我が子の安泰を日々念じたといわれます。
「なぎ」は風や波が穏やかになる例えで、昔から厄除け災難が収まるとも云われています。平成二十三年五月 奥浜名湖観光連絡協議会
※2 『藩翰譜』
「十五歳と申せし天正三年二月十五日、徳川殿、御鷹狩のため浜松の城をいで玉ひ、道のほとりにてこれを御覧じけるに、つらだましひ尋常の人にあらず、怪しとや御覧じけむ、如何なるものの子にてやあると尋ねさせ玉ふに、よく知れる人ありて、是こそ当国の井伊が孤子に侍れとて在りし事ども申しければ、不便の者かな、われに宮仕へせよとて召し試みらるるに、誠にさる武夫の子なりけり、頼母しきものぞと思召して、頓て本領を給ひしとなり」(『藩翰譜』)
「天正十年の春、武田四郎亡びし後、彼の家の子郎等悉く徳川殿に従ひ奉る。此の年冬十一月、万千代丸元服して兵部直政とめさる。十二月、武田が侍大将山県、土屋、原、一条が手の者七十四騎、坂東に名を得し兵四十三騎、引きすぐりて直政が手に附けられ、一方の大将給ひて旗幟より物の具まで、色は赤を用いけり。十二年三月、羽柴筑前守秀吉、主の北畠殿と不快の事出来て、軍起こる。信雄中将、頼み参らせ給ひしかぱ、徳川殿見張国に向かひ玉ひ小牧に御陣をめされけり。御方の御勢わづか一万五千には過ぎず。秀吉の十五万騎、こなたに向かひて陣を取り、二万余騎を引分けて三河国を襲はんとす。徳川殿此の由を聞召し、さらば此方も出向きて戦ふべしとて、密に御勢を引分けて差向けられ、みづから続きて長湫にかはる。直政御先に進む。御方の先陣、既に敵の後陣を打破り、敵さんざんに打ちなされ、先陣の勢と一つになり、取つて返して戦はんとす。直政が赤旗、赤幟、朝日の光に輝きて山よりこなたに馳せおろし、立ざま、横さま、かけ破る。敵終に打負けて、大将あまた討たれしかぱ、士卒猶いふに及ばず。京家の者共、直政を赤鬼と名づけしは此の時よりの事なりけり。」(新井白石『藩翰譜』)
※3 『直政公御一代記』
「御鷹野場直二浜松之御城江披召連御台所前二当分御部屋ヲ被進御召仕之衆上下拾六人御附金阿弥ト申坊主ヲ昼夜御附置被遊此金阿弥後二花居清心ト名ヲ改直政公江御奉公御知行三百石被下置候 直政公御逝去之後直継公御 代御暇申上在所二引籠申候 直孝公御代二度々御月見二参上仕候」(『直政公御一代記』)
※4 『直政公御一代記』
「天正十壬午、信長公、武田勝頼御退治、御皈国。権現様、御上洛。直政公、御伴被遊。二十二歳。権現様、和泉境為御見物御越被遊候処、明智日向守奉討信長公。権現様、従和泉経伊賀伊勢路ヲ御皈国之時、御道中、郷人之一揆蜂起之処、直政公、御斗策ヲ、以宇治田原山口勘助、信楽多良尾四郎次郎ヲ御国二御引付故権現様、無恙御皈国。直政公大事之御伴日夜御勤被遊候」(『直政公御一代記』)
案内板の全文
徳川四天王 井伊直政
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄四年(一五六一)二月九日井伊の庄祝田(ほうだ)で、名門井伊氏の嫡男(あととり)として生まれました。二歳の時に父直親(なおちか)が今川氏真(いまがわうじざね)の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。八歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚(なんけいおしょう)の計らいで、三河鳳来寺(みかわほうらいじ)に預けられ成長します。
十五歳になった直政は、浜松城主徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となり数々の武勲を立てます。天正十年武田勝頼(たけだかつより)を攻め滅ぼした家康は旧武田軍の「赤備(あかぞなえ)」の軍を直政に付けます。天正十二年(一五八四)小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。この功で直政は六万石に出世、井伊家再興を果たしました。
慶長五年、関ヶ原合戦では東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根十八万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
慶長七年(一六〇二)二月一日、直政は四十二歳の生涯を閉じました。





