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【井伊直政】
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武力・知力・外交力の三拍子
答えは「武力・知力・外交力」である。
要するに、ただ強い「武将」であっただけではなく、頭がよく、知恵があり、「政治家」であり、「外交官」でもあった。ゆえにスピード出世が可能だったのだ。
「武力」とは、日本最強と言われた武田の赤備えを臣下に置いたこともあるが、井伊直政自身も勇猛果敢で「井伊の赤鬼」と呼ばれている。「突き掛かり戦法」では16戦16勝の猛者だ。
井伊直政は「裸一貫」で徳川家康に仕官した。
領地も持たず、家来もいない。
そこで家康は、領地を与え、家来も与えていった。
悪く言えば「家康による育成ゲーム」のようなもので、井伊家臣団とは、家康が考えた理想の最強集団である。
しかし、「寄り合い所帯」(寄せ集め集団)という側面も持っていた。
他の徳川家臣団は、三河譜代で、主家と家臣の結びつきが強固であったが、井伊家臣団は寄せ集めであるので、井伊直政は家臣の統制に一種の「恐怖政治」を採用した。
【人斬り兵部】というのは【井伊の赤鬼】と並ぶ、もう1つの井伊直政の異称である。 自身は気性が激しく、失敗した家臣を手討ちにしていたのである。
具足を赤に統一した「赤備え」は、まずビジュアル面でのアピールが強烈だが、今風に言えば「ユニフォーム」である。
ユニフォームの着用は、戦場での敵味方の区別を容易にすることだけではなく、着用することにより「寄り合い所帯」であっても構成員の仲間意識を高め、井伊家臣団への帰属意識が生まれることに繋がる。
いずれにせよ、家康が作った理想の井伊家臣団は、最強集団でなければならず、主家の石高もそれなりにないと家臣にバカにされる。
家康は、井伊直政の石高を上げるための実績を欲しがっていたし、直政も十分承知していて頑張った。
さらに、外様(新参者)が武功をあげて出世していけば、譜代(三河武士)も、「外様ですら出世できるのであるから、譜代の自分が出世できないわけがない」と頑張るのもであり、井伊直政の出世は、譜代への意欲づけでもあった。
寺では高僧に育てるつもりだった
井伊直政の「知力・外交力」は鳳来寺で身につけた。
当時の鳳来寺は、今で言う一流大学であった。
井伊直政は、高僧(有名教授に相当)や小僧(大学生に相当)に混じって学問を習得。
「問答」は今で言う「ディベート」のようなもので、相手を論理で打ち負かす交渉術の訓練になったのである。
幼き虎松の頃から非常に優秀で、父親の十三回忌に龍潭寺に来た時、関係者で「鳳来寺には返さない」と決めたが、鳳来寺からは「このまま育てれば高僧になる。早く返して欲しい」と何度も使者が来たほどだ。
その都度、南渓和尚が追い返していたという。
子供の世界に住む大人とは、普通は両親と数人の親戚くらいである。
それで親は「人見知りのこの子が、このまま社会(大人の世界)に出て、生きていけるのか?」と心配するが、心配には及ばず、社会人となれば、やがては社交的人間に変わるものである。
井伊直政は、2歳の時から親戚や寺をたらい回しにされた。多くの大人の間で生きてきたので、元服前には既に社交性が身についていたのである。
以前「美人とブスではこんなに生涯賃金に差が出る」という試算結果が話題になったことがあった。
井伊直政は、美男子でプレイボーイであった父・直親の血を引く美男子であり、「虎の目」の持ち主であった。
彦根城博物館所蔵の「井伊直政画像」を見ると目が茶色である。心理学では、茶色の目は相手の警戒心を解き、初対面でも親しみを感じさせるという。
ちなみに、茶色の目を持つ芸能人には里見浩太朗さんがいる。
里見浩太朗さん(本名:佐野邦俊さん)は、武田信虎に仕えた武将・佐野光次の後裔。
「佐野」といえば、里見さんはTVドラマで5代目水戸黄門を演じたが、3代目水戸黄門の佐野浅夫さんとは親戚である。(
水戸黄門
初代:東野英治郎さん
2代目:西村晃さん
3代目:佐野浅夫さん、4代目石坂浩二さん、5代目里見浩太朗さん。)
水戸黄門といえば。
茶を点てるのが不慣れな徳川家綱が、茶会で水戸黄門に大量のお茶を渡したので、水戸黄門が飲みきれずに困っていると、井伊直澄(井伊直政の孫)が進み出て、「上様が点てられたお茶を飲む機会はまずない。お飲み残しでしたら、ぜひ拙者に」と申し出て飲み、その場を治めたという逸話がある。
関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで……享年42
慶長5年(1600)の天下分け目の「関ヶ原の戦い」で井伊直政は、黒田長政を通して多くの大名を東軍(徳川側)につけるという抜群の政治センスや外交手腕を発揮して東軍の勝利に貢献。
18万石で敵(西軍)の大将・石田三成が領していた佐和山の城主となった。
が、この戦いで受けた銃創(鉄砲傷)がもとで発症した破傷風と併発した敗血症が原因で、慶長7年(1602)に佐和山城で死去した。
享年42。
※井伊直政の死因(鉛中毒?)については、「まり先生の歴史診断室」を御覧ください。
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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。
自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
井伊直政(&戦国主な出来事)年表
1560年 生前 桶狭間の戦いで井伊直盛が殉死→直親が井伊家当主に
1561年 1才 祝田(ほうだ)の井伊直親屋敷で井伊直政(幼名・虎松)生誕
1562年 2才 父・直親が今川氏真に殺され、自身も命を狙われる
※井伊直虎が虎松の後見人となる
1568年 8才 小野政次に命を狙われ、三河の鳳来寺へ
1570年 10才 徳川家康が浜松城へ移転
1570年 10才 信長が浅井長政に裏切られて金ヶ崎の退き口→姉川の戦いへ
1571年 11才 織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ち
1572年 12才 三方ヶ原の戦いで織田徳川連合軍が武田信玄に惨敗
1573年 13才 武田信玄、死亡
1573年 13才 槇島城の戦いで足利義昭が敗北→室町幕府終わる
1573年 13才 小谷城の戦い(織田信長が浅井家を滅ぼす)
1574年 14才 母・ひよが徳川家臣の松下家と再婚し、虎松は養子となる
1575年 15才 徳川家康の家臣に引き立てられ井伊万千代を名乗った
1575年 15才 長篠の戦い
1576年 16才 初陣・柴原の戦いで家康を襲った間者を討ち取り、加増→3,000石
1577年 17才 手取川の戦いで柴田勝家が上杉謙信に惨敗を喫す
1577年 17才 羽柴秀吉(豊臣秀吉)が中国攻めを開始
1578年 18才 上杉謙信が病没で、上杉家の内紛・御館の乱が勃発する
1578年 18才 荒木村重が織田信長に謀反
1579年 19才 安土城の天守が完成
1579年 19才 徳川家康の長男・信康が切腹に追い込まれる(築山殿も死亡)
1580年 20才 本願寺顕如と織田信長の和睦(という名の織田勝利)
1581年 21才 織田信長の京都御馬揃え
1582年 22才 本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる
1582年 22才 秀吉の中国大返し&山崎の戦いに勝利
1582年 22才 井伊直政、家康の神君伊賀越えを助け、陣羽織を拝領する
1582年 22才 徳川家が甲斐信濃の覇を巡り北条・上杉・真田と争う(天正壬午の乱)
1582年 22才 井伊直虎、死亡
1582年 22才 松平康親の娘・唐梅院と結婚
※この後、武田家の家臣を引き継ぎ「井伊の赤備え」を組織する
1583年 23才 賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝家に勝利
1584年 24才 小牧・長久手の戦いで井伊直政は森長可と激突「井伊の赤鬼」と恐れられる
1584年 24才 沖田畷の戦いで島津が龍造寺に勝利
1585年 25才 秀吉、関白に就任
1585年 25才 伊達政宗、人取橋の戦い
1585年 25才 石川数正が徳川家を出奔して秀吉の傘下へ
1586年 26才 家康、秀吉の妹と結婚
1587年 27才 秀吉による九州討伐 / バテレン追放令 / 北野大茶会
1588年 28才 秀吉による刀狩令
1590年 30才 小田原征伐 / 井伊直政は唯一、城内へ攻め込む→北条家滅亡
1590年 30才 家康の関東移封に伴い箕輪城12万石へ(群馬県高崎市)
※徳川家臣団の中では最高の石高(このとき次点は酒井忠次10万石)
1590年 30才 奥州仕置 / 葛西大崎一揆
1592年 32才 豊臣秀次が関白となる / 文禄の役(第一次朝鮮出兵)
1593年 33才 豊臣秀頼が誕生
1595年 35才 秀次事件
1597年 37才 慶長の役(第二次朝鮮出兵)
1598年 38才 豊臣秀吉が死亡・黒田官兵衛&長政親子と共に東軍への引き抜き工作
1599年 39才 石田三成襲撃事件
1600年 40才 東北の上杉討伐のため徳川軍が出陣→三成挙兵の報を聞き小山会議へ
1600年 40才 伏見城陥落で鳥居元忠が死亡
1600年 40才 第二次上田合戦で徳川秀忠の本軍が足留めを食らう
1600年 40才 関が原の戦い / 島津義弘の突撃で銃弾を受ける(島津の退き口)
1602年 42才 井伊直政、死亡
※1 龍潭寺「梛の木」
龍潭寺「梛の木」
井伊家二十四代井伊直政(幼名虎松)幼少の頃井伊家の安泰を念じて植えられた御神木です。
一五六〇年(永禄年間)当時の井伊家は、二十二代直盛の戦死、二十三代直親が誅殺され、家老小野但馬の謀反など受難の時期でした。
直政母子は龍潭寺松岳院に身を寄せ、お地蔵様を祀りその傍らに「なぎの木」を植えて我が子の安泰を日々念じたといわれます。
「なぎ」は風や波が穏やかになる例えで、昔から厄除け災難が収まるとも云われています。平成二十三年五月 奥浜名湖観光連絡協議会
※2 『藩翰譜』
「十五歳と申せし天正三年二月十五日、徳川殿、御鷹狩のため浜松の城をいで玉ひ、道のほとりにてこれを御覧じけるに、つらだましひ尋常の人にあらず、怪しとや御覧じけむ、如何なるものの子にてやあると尋ねさせ玉ふに、よく知れる人ありて、是こそ当国の井伊が孤子に侍れとて在りし事ども申しければ、不便の者かな、われに宮仕へせよとて召し試みらるるに、誠にさる武夫の子なりけり、頼母しきものぞと思召して、頓て本領を給ひしとなり」(『藩翰譜』)
「天正十年の春、武田四郎亡びし後、彼の家の子郎等悉く徳川殿に従ひ奉る。此の年冬十一月、万千代丸元服して兵部直政とめさる。十二月、武田が侍大将山県、土屋、原、一条が手の者七十四騎、坂東に名を得し兵四十三騎、引きすぐりて直政が手に附けられ、一方の大将給ひて旗幟より物の具まで、色は赤を用いけり。十二年三月、羽柴筑前守秀吉、主の北畠殿と不快の事出来て、軍起こる。信雄中将、頼み参らせ給ひしかぱ、徳川殿見張国に向かひ玉ひ小牧に御陣をめされけり。御方の御勢わづか一万五千には過ぎず。秀吉の十五万騎、こなたに向かひて陣を取り、二万余騎を引分けて三河国を襲はんとす。徳川殿此の由を聞召し、さらば此方も出向きて戦ふべしとて、密に御勢を引分けて差向けられ、みづから続きて長湫にかはる。直政御先に進む。御方の先陣、既に敵の後陣を打破り、敵さんざんに打ちなされ、先陣の勢と一つになり、取つて返して戦はんとす。直政が赤旗、赤幟、朝日の光に輝きて山よりこなたに馳せおろし、立ざま、横さま、かけ破る。敵終に打負けて、大将あまた討たれしかぱ、士卒猶いふに及ばず。京家の者共、直政を赤鬼と名づけしは此の時よりの事なりけり。」(新井白石『藩翰譜』)
※3 『直政公御一代記』
「御鷹野場直二浜松之御城江披召連御台所前二当分御部屋ヲ被進御召仕之衆上下拾六人御附金阿弥ト申坊主ヲ昼夜御附置被遊此金阿弥後二花居清心ト名ヲ改直政公江御奉公御知行三百石被下置候 直政公御逝去之後直継公御 代御暇申上在所二引籠申候 直孝公御代二度々御月見二参上仕候」(『直政公御一代記』)
※4 『直政公御一代記』
「天正十壬午、信長公、武田勝頼御退治、御皈国。権現様、御上洛。直政公、御伴被遊。二十二歳。権現様、和泉境為御見物御越被遊候処、明智日向守奉討信長公。権現様、従和泉経伊賀伊勢路ヲ御皈国之時、御道中、郷人之一揆蜂起之処、直政公、御斗策ヲ、以宇治田原山口勘助、信楽多良尾四郎次郎ヲ御国二御引付故権現様、無恙御皈国。直政公大事之御伴日夜御勤被遊候」(『直政公御一代記』)
案内板の全文
徳川四天王 井伊直政
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄四年(一五六一)二月九日井伊の庄祝田(ほうだ)で、名門井伊氏の嫡男(あととり)として生まれました。二歳の時に父直親(なおちか)が今川氏真(いまがわうじざね)の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。八歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚(なんけいおしょう)の計らいで、三河鳳来寺(みかわほうらいじ)に預けられ成長します。
十五歳になった直政は、浜松城主徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となり数々の武勲を立てます。天正十年武田勝頼(たけだかつより)を攻め滅ぼした家康は旧武田軍の「赤備(あかぞなえ)」の軍を直政に付けます。天正十二年(一五八四)小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。この功で直政は六万石に出世、井伊家再興を果たしました。
慶長五年、関ヶ原合戦では東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根十八万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
慶長七年(一六〇二)二月一日、直政は四十二歳の生涯を閉じました。