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【井伊直政】
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井伊直親の実子、取立不叶
遠くからでも目立つよう、虎松には、直虎と実母・ひよであつらえた着物を身につけさせ、さらには直虎自筆の『四神旗』も持たせていた。
このドラマ的な演出は、見事に的を射て、虎松は浜松城へ連れていかれる。
むろん、このときの詳細な会話は残されていないが、滅びたと思っていた井伊家の跡取り男児が目の前におり、しかもそれは、かつて桶狭間の戦いで共に先鋒を努めた井伊直盛の親類であったことも家康の琴線に触れたであろう。
井伊直親の実子だと知った家康は、こう言ったと伝わる。
井伊直親の実子、取立不叶(取り立てずんば叶わじ)
【意訳】家臣として召し抱えないわけにはいかない
かくして再興を許された虎松は、これを機に「井伊万千代」と名乗り、同家の再興を叶える。
扶持は300石。16人の同心衆も付けられた。
この優遇は、当日の家康の気分が良かったことに加え、井伊家が平安時代から続く名家(藤原庶子家)であったためと思われる。
徳川家康は源頼朝を尊敬し、愛読書は『吾妻鑑』であったから、井伊氏が鎌倉時代の「日本八介」であったことは、当然、知っていた。
新井白石『藩翰譜』には次のようにある(原文は記事末の※2に掲載)。
虎松(後の井伊直政)が15歳であった天正3年(1575)2月15日、徳川家康は、鷹狩のため浜松城を出た。
すると道端に控える虎松を見つける。
「面魂」(気迫あふれる顔付き)が尋常ではなく「普通の子ではない」と思って、「どのような素性の子か、誰か知っているか?」と尋ねると、「よく知っている人」(松下常慶か?)がいた。
「この子こそ、井伊家23代宗主・直親の遺児でございます」
そう虎松の素性を詳しく伝えると、「(徳川に内通して誅殺された直親の子とは)不憫である。儂に仕えよ」と言って仮採用してみる。
と、「さすがに、井伊家の子だけあって、頼もしい」と、頓(やが)て本採用した。
一方、『直政公御一代記』には次のように記されている(原文は記事末の※3に掲載)。
(家康は、虎松を)鷹狩の狩場から直に浜松城へ召し連れ、小姓に取り立て、御台所の前に仮の部屋を与えて、16人の同心衆を付けた。
その中に「金阿弥」という目付坊主(小姓の下で衣食の世話をする御城坊主。直政の家庭教師とされる)がいた。
この金阿弥は、後に「花居清心」(三河の「花井氏」であるが「井伊氏」に憚って「井」を「居」に変えたという)と改名し、300石の文官となり、直政が死んで直継が継ぐ。
と、お暇をもらって在所(三河)に引き籠っていたが、直孝の代には、月見の宴に度々参上したという。
家康へのお目通り叶って300石の扶持を得た万千代は、すぐさま頭角を表した。
伊賀越えからの清州会議
まずは翌年「柴原の戦い(芝原とも)」で間者を討ち取り、3,000石へ加増されると、更に田中城攻めの武功で1万石へ。
このままトントン拍子に5万、10万と増えるかと思ったらそれほどに甘くはなく、程なくして桶狭間に続く戦国時代の一大事変に直面してしまう。
【本能寺の変】だ。
天正10年(1582)6月2日早朝、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたとき、徳川家康は、井伊直政らと堺(大阪府堺市。語源は摂津・河内・和泉国の境)にいた。
よく知られる服部半蔵だけでなく井伊直政も同行していたのだ。
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伊賀国の険しい山道を経て、這う這うの体で岡崎城へたどり着いた行軍は、一般的に【神君伊賀越え】と呼ばれている。
ここで井伊直政は「孔雀尾具足陣羽織」(与板歴史民俗資料館蔵)を拝領した。
再び『直政公御一代記』を見てみよう(※4 原文は記事末に掲載)。
天正10年(1582)、武田氏が滅んだ。
徳川家康は、井伊万千代(22歳・この年11月に元服して「直政」と改名)ら34名と堺見物をしていたが、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたことを知る。
家康一行は、伊賀国を経て伊勢国に向かった。
途中、住民の一揆が起きたが、万千代と長谷川秀一が計略を以って宇治田原の山口城主・山口甚介秀康、続いて信楽小川の小川城主・多羅尾光俊を味方にしたので、一行は伊勢国白子(三重県鈴鹿市)にたどり着くことができた。
そこからは海路を行き、岡崎城に無事帰還できたのである。
この間、万千代は、昼夜を問わず、家康を警護したという。
そして明智光秀が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって討たれると、6月27日、信長の跡継ぎを決める話し合いが清州城で持たれた。
【清州会議】である。
天正壬午の乱
織田家の跡取りを決める清州会議――。
信長の嫡男・織田信忠も二条新御所で死亡していたので、後継者は二男の織田信雄か、あるいは三男・織田信孝が妥当かと思われた。
しかし、秀吉の後押しで嫡孫・三法師(後に織田秀信)に決定。
この会議に徳川家康は参加していない。織田信長の死により空白地帯となった旧武田領で、北条氏直と争っていたのだ。
【天正壬午の乱】である。
武田滅亡後の領地を奪い合う「天正壬午の乱」徳川・上杉・北条に真田を交えた大戦乱
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この争いは、本能寺の変と同年の10月29日、徳川と北条で講和が結ばれ、約5ヶ月の後に終結した。
徳川は、三河・遠江・駿河国に加え、織田遺領の甲斐・信濃国を確保し、五ヶ国を領有する戦国大名となったのである。
このとき徳川側の交渉人(ネゴシエーター)に選ばれたのが井伊直政で、この功により4万石へと加増。
ちなみに、北条側の交渉人は北条氏規(駿府での人質時代、家康の家の隣に住んでいて、家康とは仲良がよかった人物)であった。
井伊直政は11月、まるで井伊直虎の死を待っていたかのように元服し、井伊家第24代宗主「直政」と名乗ると、松平康親の娘(徳川家康の養女)・花(後の唐梅院)と結婚した。
※結婚については、天正12年(1584)説もあり
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