井伊家

今村藤七郎(今村正実)とは? 亀之丞の信州逃亡に10年以上も付き添った忠義

ドラマでの出番はわずかなれど、井伊家にとっては非常に重要なサムライ、それが今村藤七郎(今村正実)である。
俳優の芹澤興人さんが演じておられ、見た目はいかにも中世の武人といった無骨な面構え。
この今村藤七郎が、なぜ井伊家にとって重要だったのか?
それは三浦春馬さん演ずる井伊直親(亀之丞)を信州国(長野県)の松源寺へ逃し、10年以上もの長きに渡ってそばにつかえ、面倒を見てきたからである。
後に徳川四天王の一人となる井伊直政が、直親の子として生まれることを考えれば、この直親を無事に生き延びさせた藤七郎こそ同家や徳川の歴史にとっては欠かせない人物であり、もっと讃えられてしかるべきであろう。
元は、勝間田藤七郎正実という名であった今村藤七郎とは、一体どんな人物だったのか。
「おんな城主 直虎」人物事典の第28回は、この武骨な忠臣にスポットを当てる。

 


井伊直満が誅殺されると勝間田から今村に改姓

今村藤七郎正実(旧名は勝間田藤七郎正実)の生家である勝間田氏は、由緒古い家柄とされており、その起源は平安時代の源義家にまで遡る。
義家の子を二俣氏が拾い、その庶子家の中に勝間田氏がおり、鎌倉時代には井伊氏とも共に戦ったとされているのだ。その後の戦乱期を経て、一時は今川家に滅ぼされるなどの憂き目に遭いながら、新野左馬助親矩の井伊谷移転に伴い勝間田氏も移住。かつては静岡県東部の牧之原市にある勝間田城を拠点としている。

かつて勝間田一族の居城であった勝間田城(静岡県牧之原市勝田)

『井伊家伝記』の作者・祖山和尚(龍潭寺九世住職)は、同書を1730年に書き上げる前の1721年に『今村家伝記』を記している。
それによると、新野左馬助の井伊谷移転に伴い、新野の近くに住んでいた松下與右衛門、松下清景、勝畠藤七郎勝重(藤七郎)も左馬助を慕って移住し、松下與右衛門は井伊直平の家臣、若い松下清景は井伊直盛の近習、勝七郎は井伊直満の家老になったという。
新野家は、今川庶子家の中では最も格下ながら、左馬助自身は非常に優れた人物だと伝わっており、『直政公御一代記』にはも次のようにある。

【原文】左馬助事、小身者二有之候へ共、日頃人々用ヒ申仁二而、左馬助否ヲ申候ハバ、遠州半国ハ左馬助手ニ付申程之きこへ有仁
【現代訳】新野親矩は禄の少ない「小身者」ではあるが、日頃から多くの人々に慕われており、新野親矩が「否(いな)」と拒否すれば、遠江国の半数が新野親矩側に付く程、影響力がある人

遠江国の国衆は、西郷氏など36人いて「遠江三十六人衆」と呼ばれていたが、その半数が新野親矩に従うとのことであるから、かなりの人物だったのだろう。

そんな左馬助に付いてきた勝間田藤七郎正実は、井伊谷では直満の家老に就任するも、天文13年(1554年)12月23日、井伊直満と直義の兄弟が誅殺されたのを機に「今村」と改姓。直満の子である亀之丞を連れて信濃国へ逃げ、その後、直親と常に行動をともにしている。
幼くして父を殺された直親にとっては藤七郎こそ父親的存在であったといえよう。

残念ながら大河ドラマの第6回放送までは大きくクローズアップされたことはないが、井伊家の歴史を今に伝える『井伊家伝記』では、藤七郎のことを大きく評価していたのであろう。以下のように長い文言を持って記されている。
原文と現代文を併記したので、読みやすい方に目を通していただきたい。

【原文】「井伊彦次郎實子龜之丞信州落之事并今村藤七郎忠節之事」
井伊彦次郎直滿、同平次郎直義傷害之後、小野和泉守、駿州ゟ歸國。直満實子龜之丞を失可申旨、今川義元ゟ下辞之旨、申候故、今村藤七郎(彦次郎家老)か満春に入候て、隠し負て井伊谷山中黒田之郷ニ忍居申候所ニ、小野和泉守、相尋申候故、近所ニかくし申事難成、南渓和尚(彦次郎肉兄)密に相談にて、今村藤七郎尓龜之丞を負せて、信州伊奈郡市田郷松源寺江落行申候。右松源寺と申す寺者、南渓和尚師匠黙宗和尚伝法の寺故、南渓和尚ゟ書状遣して、右之寺を便として龜之丞并藤七郎、信州ニ十二年隠レ居被申候。其間、藤七郎付添居申候。拾似年之中、年々南渓和尚ゟ使僧遣、金子等、為持被遣候。
扨又、今村藤七郎ハ、元来、當國城東郡之武士也。「勝間田」を名乗、系圖「勝間多」なり。舞鶴之紋。勝間多之元祖、遠州三か野にて、鶴舞シ申候より以来舞鶴之紋也。當國ニて横地、勝間多、八幡太郎義家之子孫にて源氏也。城東郡ニ横地、勝間多之在名有之。(横地、勝間多、西郷、戸塚、石谷、海老江、六家ハ、元来一家にて、遠州城東郡出生之武士なり。今以不残在名有之。)信州落之節、「勝間多」を相改て「今村」と名乗申候。
扨又、信州落之節、元日、途中にて御吸物を祝申候を吉例と成り、今以末代迄も正月元朝之御給仕ハ今村家相勤申旨、申傳候。又、直政公御落之節も正月元朝故、藤七郎御給仕致候とも申傳候。右藤七郎ハ、天正拾年迄ハ在命故、直政公御落行之節、成程藤七郎御伴可致事ニ候。相考申候ニ、藤七郎信州十二年之中、只壱人付添御奉仕申候故、年々正月之給仕とても外ニ致申候者無之、藤七郎相務申候得者、弘治元年、信州ゟ御歸國、祝田村ニ住居被成候ても、外ニ正月之御給仕致候者も無之、藤七郎相勤申候得ハ、其吉例、自然と直政公御代ニ相傳。夫ゟ御吉例ニ成り、御代々藤七郎児孫之今村家、相務申事と相見申候。右之由緒故、正徳二年辰之八月、井伊肥後守直親公百五十年遠忌之節、藤七郎児孫今村忠右衛門、 御代参ニ長院様 被仰付也。

【現代文】亀之丞の信州落ちにおける今村藤七郎の忠義
井伊直満と直義が駿府で今川義元に誅殺された後、家老の小野政直が駿河国より帰国。「直満の実子である亀之丞を殺せ」という今川義元の命令を伝えた。これを聞いた今村藤七郎正実は、叺(かます・穀物等を入れるために藁蓆で作った袋)に亀之丞を入れて背負い、井伊谷の奥の山間部の黒田郷に潜んでいると小野和泉守政直が探索に来たので、このまま「井伊谷の近くに隠すのは無理である」として南渓和尚と密かに相談、信濃国の松源寺へ落ち延びた。南渓和尚の師である黙宗和尚は、師である文叔和尚から「伝法」(師が弟子に仏法を授け、伝える事)された経緯があるが、この松源寺という寺はそもそも文叔和尚開山の寺で縁があり、南渓和尚が手紙を書いて遣いに渡したのである。「この寺はいろいろと都合が良い」と考えた今村藤七郎正実と亀之丞は、12年間ここに隠れ棲む。その間、今村藤七郎正実は、ずっと亀之丞に付き添っており、生活費は年に5~6回、南渓和尚の遣いの僧が持ってきた。

興味深いのは、いざ亀之丞を逃がすときに叺(かます)に入れて運んだことであろうか。

亀之丞は叺に入れられ逃された

藤七郎はこの叺を背負って、以下の旧鳳来寺街道を進んだ。

亀之丞の逃亡に使われたと思しき信州街道(旧鳳来寺街道)

詳細は直親の長野逃避行ルート記事に記されているので、

そちらをご覧いただきたいが、この逃避行は年末から始まり、すぐにやってきたお正月は逃走中であって、例年のようには過ごせなかった。

 


井伊家の正月給仕は現代も今村家と決まってる!?

荒れ果てた戦国時代とはいえ、元日は一年で最も大事な祝のとき。
そんな日に逃げねばならないなんて、今川に狙われた亀之丞がいかに切迫した危機だったか、そしてこれを助けた今村がどれだけ信用されていたか、ご想像できよう。

弘治元年(1555年)になって直親が信濃国から遠江国井伊谷に帰国すると、藤七郎は祝田 (静岡県浜松市北区細江町中川)に屋敷を建てて住むようになる。
実はそれ以降の井伊家では、現在に至るまで元旦のお給仕は今村家が勤めることになっている。藤七郎は、直親が信濃国に隠れ住んでいた12年間、唯一の付添人であり、毎年正月になっても他に給仕することは無かったのでそのまま彼が勤めていたのが縁となったのであろう。

井伊直政に代替わりしたときも自然に引き継がれ、その頃より藤七郎の正月給仕は井伊家を救った吉例となり、今村家が代々勤めるようになったと思われる。

松岡城址に再建された松源寺(長野県下伊那郡高森町下市田)

後の永禄11年(1568年)末、井伊直政が三河国の鳳来寺に落ち延びているが、このときも藤七郎がお給仕されたと伝わっている。藤七郎は天正元年(1573年)12月23日没と考えられているので、給仕は可能である。
この由緒により、正徳2年(1712年)8月の「井伊肥後守直親公150年遠忌」でも、藤七郎の子孫である今村忠右衛門が代参するよう、長寿院様(井伊直興公)に仰せつけられていた。

ちなみに、正月のお給仕の話は、松平氏(徳川氏)と林氏の「正月の兎汁」の話にも似ている。
徳川家では、正月に林氏が兎のお吸い物をお給仕することになっている。これは、世良田親氏(後の松平初代親氏)が後南朝狩りで逃亡中、信濃国の林氏の家(長野県松本市)に隠れた時、貧しい林家では、雪の中を探し回ってようやく1匹のウサギを仕留め、1月1日に兎汁を振る舞うと、その年に世良田親氏が三河国松下郷に達して運が開けたことから、正月の「吉例」として続けられているとのことである。

「昔、徳川将軍家にて元旦の吸物に兎を用ひたる慣例は三河後風土記・瑞兎奇談等の文献に徴すべく、普く人口に膾炙したる事実也。而して眇たる我上根岸の里は、幾百年の久しき此兎を献納したる歴史を有する処、由来は遠く家康公九代の祖有親と其子親氏とが、故あって信州林郷なる林藤助光政の家に客たりし、其歳も尽きんとし光政雪中に兎を狩り、之を翌永享十二年元旦の吸物として供せしが、不思議にも有親父子開運の基と成り、終に家康に至って覇業を遂げたる故、徳川家に在りては無上の吉例として永世絶つことなかりし者也。」
「献兎乃記念碑」の碑文(八坂神社(木更津市上根岸)境内)

 


なぜ藤七郎は、直親と共に殉死しなかったのか?

高森町によって制作された「亀之丞の信州落ち」CM動画がある。

このCMでは、亀之丞と笛の師匠・千代との間に高瀬姫(井伊直政の姉)が生まれており、井伊谷に戻るときにこの娘を連れ帰ったところ、次郎法師が呆れて「亀之丞とは結婚しない」と決めたという。

このCMも『井伊家伝記』も、亀之丞が信州にいた期間を「12年」としているが、史実では、
天文13年(1544)12月23日 井伊直満誅殺。
天文13年(1544)12月29日 亀之丞、黒田へ逃亡。さらに渋川へ。
天文14年(1545)1月3日 亀之丞、東光院(渋川)から松源寺(市田)へ。
弘治元年(1555)2月 亀之丞、松源寺より帰国。
であるから、約10年間である。

さて、その後も心身共に井伊直親へ仕えた今村藤七郎正実は、いつ亡くなったのか?
常に主君と行動を共にしていた今村藤七郎が、井伊直親と同じ時に同じ場所の「永禄5年(1562年)12月14日の掛川」で死んでいないのである。井伊直虎の実父・井伊直盛は、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるときに殉死している。いわゆる「追い腹」(殉死)は当時の武士では珍しいことではなかったのにもかかわらずである。

義元―直盛なんかより、はるかに結びつきの強かった直親―藤七郎がナゼ?
あくまで想像だが2つの可能性が思いつく。

①今村藤七郎は家老として、井伊谷城、あるいは、祝田城(直親屋敷)に残り、主人の留守を守っていた。
②井伊直親主従は、朝比奈泰朝に全員討たれたのではなく、井伊直親と数人のみ討たれ、生き残った従者たちが井伊直親の遺体を祝田に持ち帰った。

ゆえに今村藤七郎は、井伊直親と一緒に死んでいないのではないか。
②の場合だと仮に生き残ってもその場で殉死しそうだから、①の可能性の方が高いかもしれない。

今村藤七郎一族の墓(龍潭寺)

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。


自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 



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