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絵・富永商太

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週刊武春 豊臣家

豊臣秀吉の成り上がり伝説62年を史実ベースで振り返ろう!「難波の夢」は今も我らに息衝くか

更新日:

人は笑顔が9割。
図抜けたスマイルさえあれば、世の中を上手に渡るどころか、制することだって可能。
それを歴史上で体現してしまったのが、人たらし大名こと豊臣秀吉だ。

秀吉の出世ストーリーは、とにかく凄まじすぎて、古今東西例を見ない。

農民(あるいは足軽)の家に生まれながら織田信長に取り入って家臣となり、あれよあれよと武家の出世階段を駆け上がると、本能寺の変後は自ら全国を統一。さらに位的には武家の頂点を飛び越えて貴族のトップ・関白となってしまうのだから、本当にマンガそのものの展開だ。

しかし、秀吉だって人間である。
失敗もあれば、人間臭く、かなり黒い部分もある。
現代まで伝わる輝かしい逸話の中には後世の創作も多く混ざっており、たとえば織田家の美濃進出の際に「墨俣一夜城」を作り上げたという鉄板ネタも、作り話だったというのはコアな戦国ファンにはよく知られた話である。

一体、豊臣秀吉とはいかなる人物だったのか?
史実においてはどんな活躍が伝わっているのか?

本稿では最新研究に基づき、等身大の草履取り、等身大の太閤殿下に迫ってみたい。

 

出生記録がアヤフヤ 最初の仕官先は織田家じゃない!?

豊臣秀吉は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)の生まれである。
名門武将であれば基本的に生年は「◯年」と記録されるか、場合によっては「◯月◯日生まれ」と残されるものだが、秀吉は生年ですらアヤフヤ。天文6年(1537年)が有力とされながら、天文5年の可能性も指摘されている。

それも致し方ない話なのだろう。
父は足軽、または農民であったとする木下弥右衛門で身分は低い。母は後の大政所「なか」である。
父親の身分が低いどころか、そもそも誰が父親なのか不明な子供だったとの説も服部行雄氏によって提示され、有力視されている。
「木下」という名字も、もともと名字のない身分の家に生まれたから、秀吉と結婚したねね(おね、ねい、のちの高台院)の母親の実家から取ったという説もある。

そんな秀吉は少年期から青年期にかけて一体いかなる暮らしをしていたのか。
通説に従って話を進めると、父・弥右衛門は早くに死に、母・なかは竹阿弥と再婚。義父と実母の間に弟・豊臣秀長と妹・朝日が生まれ、義父と折り合いの悪かった秀吉は、家を出たという話になっている。
ところがこれについても、竹阿弥が秀吉の実父という説や、いやいや秀長と朝日の父も秀吉と同じく弥右衛門だよ――と混乱させられるように、前半生は不明というのが実態なのだ。

有名な、秀吉の幼名「日吉丸」にいたっては完全に創作であり、真の幼名もまた不明。
下層階級の出身であったため記録が少なく、秀吉自身も天下人となってから「きょうだい」と名乗りあげた人物を虐殺するなど、実父の出自を隠そうとしていた様子がうかがえる。

かくして記録に残されることなく、家を出た秀吉は15歳頃、ある武家に仕えることになった。
それこそが織田信長……ではなく今川義元の陪臣・松下長則である。遠江国の頭陀寺(ずだじ)城主であり、現在の静岡県浜松市南区に本拠を構えていた。

家柄とは関係なく、若かりし頃から目端だけは利いたのであろう。
秀吉は松下家で目をかけられていたようだが、まもなく同家を去ることになる。これは主君に気に入られ出世した秀吉を周りが妬み居づらくなったからとも、秀吉が金を盗んで出奔したとも言われ、真偽は不明。

ただし、後に秀吉が、長則の息子・松下之綱(ゆきつな)を家臣にし、1万6000石の大名(遠江・久野城主)にまで取り立てていることから、少なくとも松下家に恩義を感じる扱いをされていたのは間違いなさそうだ。

 

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一目惚れで結婚も女性問題で大喧嘩 信長に叱られる

松下家を去った秀吉は天文23年(1554年)頃から、当時、清須城主だった織田信長に仕えはじめた。

仕官のきっかけは知人の口利きと言われるが定かではない。
草履取りとして信長の草履を懐で暖めた逸話もつとに有名だが、この話は江戸中期の本が初出である。

ただ、ここでも色々と機転が利き、信長に気に入られたことは確かなようだ。
草履の他にも、台所を取り仕切って薪の量を減らしたり、清須城・石垣修理の際には部下を数組に分け、早く仕上がった組に報奨を出すことでお互いを競わせ、工期を短縮した逸話が伝えられる。

永禄4年(1561年)、秀吉は信長の弓衆であった浅野長勝の養女おね(ねね、ねい)と結婚する。長勝は実子がおらず、おねは長勝の妻の妹にあたる朝日殿と杉原定利の娘であった(長勝の姪)。
この結婚は、10歳以上も若いおねに一目惚れした秀吉のプロポーズからはじまった恋愛結婚で、当時としては珍しいもの。秀吉の身分が低かったことでおねの実母は結婚に反対だったが、長勝や周囲の説得もあり2人は無事、結ばれることとなった。
おねは後に秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)として豊臣家の家政をとりしきることとなる。

少々先の話となるが、長浜城主のころとみられる書状に【秀吉が女性問題でおねと大げんかをして信長が仲裁し、秀吉を「はげねずみ!」と叱責する】ものがある。(徳川美術館「天下人の城」展で出品しているのでよろしければご覧いただきたい/2017年7月15日~9月10日)。

イラスト・富永商太

 

金ヶ崎の退き口で死地からの生還

秀吉の名が最初に現れた史料は、永禄8年(1565年)11月2日の坪内利定(喜大郎)宛て知行安堵状である。

このときの名前は「木下藤吉郎」。坪内に与えられたのは622貫目(石高換算は諸説あるが藤田達生氏は100石としている)で中級武士だったことから、彼に知行を安堵できる秀吉は、この頃には織田家臣の中でも相当な地位を築いていたと言える。ちなみにこのとき信長は、清須城から小牧山城(愛知県)へ居城を移している。

この2年後には、現代において軍師として知られる竹中重治(半兵衛)を配下に組み入れた。
岐阜城へ移った信長に従い、秀吉も上洛戦に参加し、近江(滋賀県)六角氏の観音寺城支城(箕造城)の戦いで武功を立てるなど、実戦での記録が目立つようになってくる。
そして元亀元年(1570年)、越前(福井県)の朝倉義景討伐に出かけた時、織田家ならびに秀吉の運命は大きく変わる。

浅井長政の突然の裏切りにより織田軍は挟撃されてしまったのだ。

北からは朝倉の反撃。南からは浅井の猛追。
織田家ならびに織田信長は、後に幾度か周囲の大名たちに囲まれ、その命を脅かされてきたが、おそらくやこのときが最も慌ただしく追いつめられたことであろう。

そこで秀吉に与えられた役割が殿(しんがり)であった。迫りくる敵の目を自分たちに引きつけながら、同時に味方の軍を無事に国許(あるいは京都)へ帰らせる役割であり、死んでも仕方のないポジションである。
そこで見事、信長はじめ大勢の味方を撤退させることに成功し、同じく任にあたっていた池田勝正や明智光秀と共に帰国を果たす。

この一連の撤退劇を「金ヶ崎の退き口」と言い、考え方によっては秀吉最初のターニングポイントだったと言えるかもしれない。ちょうど織田信長が桶狭間で今川義元を討ったようにだ。

浅井長政/wikipediaより引用

 

浅井の旧領を与えられ37歳で城持ちとなる

朝倉浅井の挟撃に遭い、一時は死線を彷徨った織田軍。いったん国へ戻った信長の動きは異常なまでに素早かった。
同撤退から約3ヶ月後、リベンジとばかりに浅井へ攻め込み、姉川の戦いに勝利。
浅井の本拠地・小谷城を守るための支城である横山城を奪うと、秀吉が城代となり、それから約3年後の天正元年(1573年)、ついに織田勢は小谷城の戦いで浅井家を滅亡へと追い込むのであった。

難攻不落の山城とされる小谷城攻撃では、秀吉が大奮闘。攻略に貢献するだけでなく、このとき救ったとされるのが信長の妹・お市と、更には彼女と長政との間にできた3姉妹であった。
長女の茶々は後に自身の側室となって豊臣秀頼を産み、次女の「初」は京極高次に嫁いで、三女の「江」は徳川秀忠の妻となるのはよく知られた話であろう。
これら活躍の報奨として秀吉は、浅井の旧領・北近江三郡を与えられた。

小谷城は廃城となり、秀吉は琵琶湖に面した「今浜」を「長浜」と改名し長浜城を建てる。
改名の際には信長から「長」の一字をもらったという、なんとも彼らしい話が伝わっているが、このとき信長に仕えて約20年が経過。出自すら不明の秀吉は、37歳にして城持ちとなるのであった。

なお、記事の便宜上、ここまで全て「秀吉」表記で統一しているが、当時「木下藤吉郎」と名乗っていた秀吉はこの頃に「羽柴秀吉」と名を改めている。
「羽柴」という名字は、信長の有力家臣である丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ貰った――というのが通説ながら、他にも説があって確定はしていない。

いずれにせよ朝倉浅井を滅亡させ、尾張~美濃~そして近江・琵琶湖畔を手中に収めた織田家。近江と岐阜を結ぶ要衝で城主となった秀吉の貢献が多大であったことは疑うべくもなく、後に彼らは西の大国・毛利家との対決に駆り出されることとなる。
そこで気になるのが東の脅威だった武田信玄。一体、どうなったのか?
というと、話は前後してしまうが、浅井朝倉を滅亡させる前に信玄は亡くなっており(1573年)、織田家としては一気に道が拓けるような極太の幸運に恵まれている。

 

上杉謙信を目前に逃亡するも松永討伐で名誉回復

武田勝頼との直接対決となる長篠の戦い(1575年)では秀吉も一軍を率いて騎馬軍団の精鋭たちを撃退し、更には翌年、伊勢(三重県)北畠氏の遺臣が籠もる霧山城攻略などでも功績を挙げた。
この1576年には安土城の建設も始まっている。
普請奉行に任命されたのは丹羽長秀。彼の指揮によって工事が進められていく中で、秀吉が出て来るエピソードが「蛇石」という巨石だ。
城の中へと運ぼうとしたがどうしてもうまくいかず、そこで秀吉や滝川一益などが手伝うこととなり、実に1万人もの人数で山頂へ引っ張りあげたという。

かように近江ではノンビリとした牧歌的な雰囲気も感じられるが、一歩、外へ目を向ければ敵だらけの状況に変わりはない。
信玄が死に、次に脅威となったのが他ならぬ上杉謙信だ。同家との戦いは秀吉にとっても後味苦いものとなった。
柴田勝家が謙信と対峙した手取川の戦い(石川県)で、勝家と意見が合わず無断で撤退し、信長の勘気を被るのである。

ただしこの直後、松永久秀の討伐戦で功績を挙げて信長から褒美まで貰い、信用もさらに厚いものとなったのだろう。
天正5年(1577年)秀吉は、毛利元就の築いた中国地方の毛利切り崩し工作を命ぜられる。
このころ信長の四男・於次丸を養子として迎えてもおり、信長政権下では明智光秀と並び称されるトップクラスの「軍団長」となっていた。

伊勢安土桃山文化村にある安土城のレプリカ

 

本能寺の変、勃発! 伝説の「中国大返し」始まる

いざ中国地方へ進出――。
長浜城を妻のおねに任せて姫路城を拠点にした秀吉は、天正7年(1579年)には備前美作の大名・宇喜多直家を服属させた。

しかし同年、播磨・伊丹城の荒木村重離反で、中国攻略は一時中断。
矛先を変えて三木城へと軍を進めると、秀吉は天正6~8年にかけて過酷な兵糧攻めとして知られる三木の干殺しを敢行する。
2年にわたって城兵や村民を飢えの極地に追い込み、多くの餓死者を出したのだ。
さらに翌天正9年には、事前に周囲の米を買い上げた上で鳥取城を完全に包囲し、数千人もの人々を餓死へと追い込み、同城を陥落させる(鳥取の飢え殺し)。
※このとき大河ドラマでも主役になった黒田官兵衛が共に暗躍していた

天正10年(1582年)、秀吉は、毛利方の備中高松城(岡山県)で水攻めを行っていた。
敵城主は今なお名将として名高い清水宗治。
援軍にやってきた毛利方としてもこの拠点を落とされるワケにはいかず、さりとて秀吉との全面対決には至らず、ジリジリと大軍の鼻先を突き合わせて動けずにいる日々が続く。

戦局を動かすには、織田信長、直々の出陣がしかるべきか――。
後世から見てもかような判断をしてもおかしくない、まさにそんなとき、秀吉にとっては雷に打たれたような激震が走ったであろう出来事が勃発する。
日時は6月2日早朝。そう、本能寺の変が起きたのだ。

秀吉が、信長の死を知ったのは6月3日夜から4日未明と言われる。
つまり事件後36時間から48時間のうちに知らされていたのだから、その情報網はかなり高度なものだったと推測できる。

秀吉は信長の死を隠し、高松城主・清水宗治の切腹を条件に、毛利輝元と講和を結び、即座に京へ軍を引き返した。
※実際は、水運を通じて毛利方にも「本能寺の変」が伝わっていたという見方もある。となると、なぜ毛利方は秀吉の背後へ襲いかかることをしなかったのか?という疑問も湧いてくるが、領土拡大を望まない毛利としてはここで秀吉に恩を売っておき、事後の所領安堵を担保しておきたかったのかもしれない

そして歴史に残る大移動劇が始まる。
「中国大返し」だ。

イラスト/富永商太

 

山崎の戦いで明智光秀を討ち、清須会議に臨む

備中高松から京都まで約200km。
これを約10日間で走りきったとする「中国大返し」の秀吉軍について、日程の詳細は諸説あるが、9日未明には姫路城を出立したことが様々な史料で一致している。

秀吉は配下の兵に姫路城の米や金銭をすべて分け与え、明智光秀との戦いに決死の覚悟で臨んだ。

場所は京都の山崎である。
短期間で大軍の動員に成功した秀吉は、6月13日、体制の満足に整わぬ明智軍と決戦、首尾よく勝利を治める。
同合戦は山崎の戦いとも天王山の戦いとも言われ、その兵数は史料により異なるが、太閤記によると秀吉軍4万に対し明智軍は1万6000しかおらず、迅速な行軍が勝利につながったといえるだろう。

信長の弔い合戦で主君の仇を討った秀吉は、織田家臣団の中で政治力・発言力を強め、臨んだ清須会議では三法師(信長の長男・信忠の息子)を担ぎ出した。
同会議は、織田氏の後継および領土配分を決めるもので、単純に石高だけ見ると重臣・柴田勝家を抜くことになるが、同時に近江の要衝であった長浜城を手放すことになり、更にはお市の方が勝家のもとに嫁ぐことになり、後世語られているように「秀吉の一人勝ち」でもなかったことが窺える。
信長の妹であるお市の方は、やはり重要なシンボルであり、その発言力も無視できなかったのである。

姫路城を拠点とした秀吉は、急遽、山崎の戦いで舞台となった地に山崎城を築いた。
京都や安土城から遠い姫路では、いざというときに心もとないからであり、実際、その懸念はスグにでも炎となって燃え盛りそうであった。
言うまでもなく柴田勝家との対立である。

清須会議後、秀吉が信長の次男・織田信雄(のぶかつ)を三法師が成人するまでの織田当主として擁立し、信長の三男・信孝の後見であった勝家と真っ向から対立。
天正11年(1583年)、ついには賤ヶ岳の戦いへと発展する。

当初は勝家側が優勢であった。
が、岐阜城へ向かうと見せかけて急に踵を返した秀吉の「大返し」による機動戦や、前田利家の戦線離脱などで柴田軍は大敗を喫す。
越前の北ノ庄城(のちの福井城)に撤退した勝家は、結婚したばかりの正室・お市の方と共に自害した。浅井長政の小谷城陥落に続き、このとき再び救出された浅井3姉妹の長姉茶々が、のちに秀吉第一の側室となるのはもはや抗えない運命だったのかもしれない。

その後、岐阜城主だった信孝は、尾張知多の大御堂寺(野間大坊)にて自刃に追い込まれた。
ちなみにこの野間大坊(愛知県美浜町)は、平安時代の「平治の乱」で源義朝(頼朝の父)が殺された地であり、信孝は自ら腹を切ると、秀吉相手に凄まじい怨恨の辞世を残している。

「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

切腹のお作法と痛~い現実! 腹を切っただけでは壮絶に苦しみ、チョ~悲惨な末路が待っている

 

徳川家康を相手に「小牧長久手の戦い」

織田信雄を当主に祭り上げ、実質的に織田家を牛耳った秀吉は天正11年(1583年)、大坂石山本願寺の跡地に絢爛豪華な大坂城の建築をはじめた。
※黒田勘兵衛を責任者とした同城の工事は6万人を動員し、約15年の歳月を経て完成にいたる。

そして天正12年、信雄との仲が悪化すると、にわかに浮かび上がってきたのが徳川家康だった。
本能寺の変で命からがら浜松へ引き返していた家康は、信長の敵討ちを秀吉に先を越され、急に膨張していく秀吉の権力に何らかの手を打たねばならない状況であった。
そこで、反秀吉の動きを見せた織田信雄と手を組み、兵を挙げるのであった。

この対立は諸将を巻き込み、尾張北部を舞台とした「小牧・長久手の戦い」へと続いていく。
1584年3月、織田陣営だった池田恒興(岐阜城主)と森可成(美濃・金山城主)の秀吉寝返りにより、美濃に面した犬山城(愛知県犬山市)を発端にして合戦は始まった。

秀吉軍10万。対する織田・徳川連合軍は3万。
圧倒的な兵力差だが、結束の固い徳川軍の士気は低くない。

小牧山城に立て籠もる織田・徳川軍に対して、秀吉は、楽田城を前線基地に、付け城を多数築城、小牧山城を包囲した。
しかし、かつての三木城や鳥取城、高松城のような完全な包囲はできず、戦況に痺れを切らした秀吉は、三河急襲作戦を発動する。

この急襲作戦、かつては「羽黒の戦い(犬山城占拠の局地戦で森隊は徳川の急襲を受ける)」で敗北した池田恒興と森長可が汚名返上のため、しぶる秀吉を押し切ったアイデアとされていたが、実際は秀吉が主導したことが判明。
結局、秀吉のおいの羽柴秀次(ひでつぐ)を大将とする三河中入り部隊は、4月9日、長久手において挟撃され、森長可・池田恒興はじめ2,500人もの将兵を失い、完敗となった。
局地戦はあったが、精強な徳川相手の無理強いを嫌った秀吉は矛先を変えて、尾張南部の徳川陣営の城や信雄の本拠地・伊勢(三重県)を攻撃し、これに耐えかねた信雄との単独講和にこぎつける。
かくして大義名分のなくなった家康は軍を撤収するしかなかった。

(富永商太・絵)

 

小田原征伐から奥州仕置へ 天下統一の総仕上げ

足場を固めた秀吉は、いよいよ反秀吉勢力の各個撃破に乗り出す。

天正13年(1585年)の紀州(和歌山)征伐を皮切りに、同年には長宗我部を降伏させ、四国も傘下に。
最強のライバル・家康も、天正14年の正月に信雄を通じて和睦に至る。
が、臣従を意味する上洛を家康が拒否し続けたため、同年9月、秀吉はウルトラ技を繰り出した。実母・大政所を三河に下向させたのである。
ことここにいたり秀吉の政治力・外交術に負けた家康は10月になってようやく浜松を出発し、同月26日、大坂城で対面した。

これにて秀吉の天下人としての座は、ほぼ確定したのである。

勢力拡大と連動するように官位も上がった。
天正12年に従三位権大納言となると、天正13年には正二位内大臣に叙任される。正二位は信長と並ぶ官位である。
実は、右大臣の就任も打診されていたが、信長が前右大臣の地位で本能寺で斃れたことからこれを避けたという。

四国攻めの最中には関白相論(二条昭実と近衛信尹の関白をめぐる争い)で漁夫の利を得て、藤原氏である近衛家の養子となり関白に就任する。
関白就任は、家康を屈服させる大義ともなった。

そして天正14年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任、豊臣政権を樹立する。

この時点で秀吉に従っていない大勢力は、九州の島津氏、関東の北条氏、東北の伊達氏ら、地方の諸大名である。
伊達政宗と並ぶ東北の雄・最上義光は、早くから中央に誼を通じており、伊達家とは異なる動きをしていた

九州で勢力を伸ばしていた薩摩(鹿児島)の島津義久は、豊後(大分)の大友宗麟と領地を争っていた。
局地戦では立花宗茂が奮闘するなどの動きを見せていた大友であったが、ついに劣勢へと追い込まれると宗麟は秀吉に助けを求め、秀吉も好機とばかりにこれを受諾。朝廷権威を背景として島津義久に停戦命令(後の惣無事令、大名同士の私的な領土争いを禁じた命令)を発令するのであった。

しかし、島津義久はこれを無視。
仙石秀久長宗我部元親を相手にした「戸次川の戦い」で鮮やかに勝利を飾るも、結局は衆寡敵せず。20万にも及ぶ秀吉の大軍に抗しきれず、あえなく降伏することとなる。
なお、豊臣政権下での島津家は、義久の弟・島津義弘の覚えがよく、その義弘が関が原の戦いですったもんだがあり、後に「島津の退き口」へと繋がるのであるから、歴史とは興味深い。

九州平定後、秀吉は関東と奥羽の諸大名に向けて惣無事令を発令した。
要は「勝手にケンカしちゃダメ。違反したら潰すよ」という趣旨のものであり、未だ完全なる支配下には及ばない東国の武将たちにとっては「何を突然?」というほかない内容。
とはいえ、秀吉の権力が絶大なものであることは絶対であるし、伊達政宗などは、いつ傘下に降るか降るか……、とタイミングを計っていたとされる(少し遅れて危うく首を斬られそうに)。

そこで先を見誤ったのが北条だった。
同家は、豊臣方である真田との領地争いを抱えており、惣無事令が発令された後に真田方の城を強奪。まさに秀吉へとケンカを売ったようなカタチとなり、格好の口実を与えてしまうのだった。

この機を見逃す秀吉ではない。
惣無事令違反をただすための兵を挙げ、瞬く間に20万の大軍で小田原城を包囲。わずか3ヶ月後に降伏させ、小田原征伐を完了させるのである。
この小田原陣中に伊達政宗ら奥羽の大名も参陣しており、小田原落城後の奥州仕置を以て秀吉の天下統一は完了した(1590年)。

イラスト・富永商太

あくまで後年からの評であるが、この頃が天下人・秀吉としてのピークだったのではなかろうか。

彼がこのころ行った政策として、
・京都に「聚楽第」の築城(大坂城は私的な城)
・バテレン追放令
刀狩令
などがあり、更には信長の姪・茶々(淀殿)を側室にしている。
関白の公的な城である聚楽第は、間もなく廃城となり、代わって伏見城を建築。大坂城に水運で直結させた。

そして天正17年(1589年)には、秀吉と淀殿の間に待望の長男・鶴松が生まれ、いったんは後継者としている(後に幼くして死亡し、その弟・秀頼が豊臣の跡を継ぐ)。
ちなみに秀吉は、おねをはじめ多数の妻を持ったが、子供が生まれたのは淀殿のみという説が有力。つまりは女性側ではなく、秀吉の生殖機能に問題があったと推測される。
詳細は以下の記事をご覧いただきたい。

豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった!? 天下人に降りかかった衝撃スキャンダル!

小田原征伐をスッキリ解説! 北条家が強気でいられた小田原城はどんだけ強かった?

 

豊臣政権の屋台骨を揺るがした朝鮮出兵と秀次自害

天正17年(1589年)、秀吉を支えて来た弟の秀長が亡くなった。
更には後継者に指名していた鶴松も、相次いで病死。その落ち込みは推して知るべし、秀吉は姉の子である秀次を養子に迎え、家督を相続させる予定として関白を譲る。
関白を譲った人のことを「太閤」と呼ぶことから、秀吉は太閤と呼ばれることになった。

秀吉の政治力・外交力からキレが失われていったのもこうした不幸が原因だったのだろうか。
同年、それまで重用していた茶人・千利休を自害させると、8月には「唐入り」を表明、肥前国に出兵拠点となる名護屋城の築城を開始する。
そして翌文禄元年(1592年)、明と朝鮮の征服を目的に16万もの軍勢を朝鮮へ出兵させた(文禄の役)。

朝鮮出兵の序盤は、秀吉軍が朝鮮軍を圧倒した。
しかし、明からの援軍が送られてくると、たちまち戦況は膠着、文禄2年なって明との講和交渉が開始される。
朝鮮出兵は、兵役を課せられた西国の大名を疲弊させ、豊臣政権の基盤を弱める結果となった。

そしてこの年、豊臣政権の今後に響く出来事が同時に起こる。
茶々(淀殿)との間に豊臣秀頼が生まれたのだ。
これで困ったのが甥の豊臣秀次である。

豊臣秀次/wikipediaより引用

鶴松の時と異なり、秀吉は既に後継として秀次を関白としていた。
当初は、全国をエリアに分けて「秀次5、秀頼1」と明言するなど、秀次排斥の予定はなかったのである。
しかし、秀次のメンタルが弱かったのであろうか。
秀頼誕生に焦って情緒不安定になると、両者の溝が深まってゆき、結局は「秀次切腹事件」へと繋がってしまう。

同事件の処理が、またマズかった。
秀次の自害に連座して、妻子の殆どが処刑されたのである。
元々少ない秀吉の血縁を更に減らすことになったばかりか、殺された妻子の中には、秀次に嫁いだばかりでこれから顔を合わせようという駒姫(最上義光の娘)もおり、更には伊達政宗なども嫌疑をかけたのだから始末が悪い。
最上も伊達も、秀吉の死後、キッチリと徳川家康になびいている。

そして慶長2年(1597年)、明との和平交渉の決裂を受け、再び14万の兵を朝鮮に出兵(慶長の役)。同時に京都と大坂のキリスト教徒を捕縛し26名を処刑した。
慶長3年(1598年)3月に醍醐の花見を終えた後、5月より病にかかっていた秀吉は日々体調が悪化する中、五大老と一部の五奉行に宛て遺言状を出し、この世を去った。

8月18日、場所は伏見城にて。
死因は明らかではないが、腎不全による尿毒症、脚気、梅毒、明の使者による毒殺と諸説ある。
62歳の波乱に満ちた生涯であった。

辞世の句は、慌ただしく権力の階段をのぼりきった男にしては、どこか儚いロマンの漂うものであった。

「露とおち 露と消えにし 我が身哉 難波のことも 夢のまた夢」

イラスト・霜月けい

 

20人はいたと思しき側室と数少ない子供

秀吉の妻としてよく名が上がるのは、貧しい時代から彼を支えた「おね」と、秀吉が50歳を過ぎて側室に迎えた淀殿だろう。
おねと秀吉の間には子はいなかったが、加藤清正や福島正則などの親類縁者を実子のように可愛がり育てた。
淀殿は、信長の妹・お市の方と浅井長政の娘である。

「淀」の呼称は、第一子・鶴松を懐妊した際に秀吉が山城・淀城(京都)を産所として与えたことに由来する。
鶴松は2歳で夭折してしまうが、第2子の秀頼は5歳で家督を継ぎ、成人を迎えている。

前述したように秀頼は秀吉の実子でないという説もあるが、真相を知るのは母の淀殿のみであり、秀頼は大阪の陣で自刃、息子の国松は処刑され、娘は仏門に入っている。
いぜれにせよ秀吉の血を直接引いた子孫は居ない。

秀吉は女好きで多くの側室を持った。
生まれと容姿のコンプレックスから身分の高い女性に憧れていたとも思われ、側室の中には、大名の娘も多くいた。信長の娘や、前田利家の娘、淀殿の従姉妹にあたる人物もいる。
ただ、なぜか公家の娘には興味を持っていなかったようだ。

はっきりと記録が残る側室は13人であるが20人程度の妻がいたと考えられる。
長浜城主時代には、妾にあたる南殿との間に一男一女をもうけたともされる話もあるが、両人とも幼いうちになくなっている。

 

大事にしきれなかった(?)血縁関係

秀吉には父の同じ姉が1人、父の違う弟1人と妹が1人いる。

父の同じ姉の智(日秀尼)は、農民であった弥彦(後に秀吉の家臣となり三好吉房と名乗る)に嫁ぎ、三男を産んだ。
それぞれ以下のような足跡を辿っている。
・長男の秀次は秀吉の養子となり関白の位を譲られるが粛正される(あるいは自らの自害説も)。
・次男の秀勝も秀吉の養子となり、浅井長政の三女・江と結婚し、娘の完子を授かるが、文禄の役にて朝鮮に渡って病死する。完子は江の再婚に際して、淀殿の養女となり九条家に嫁いだ。
秀吉の親類で現在まで血脈を残しているのは完子の子孫のみであり、実は今上天皇にも完子のDNAが受け継がれている。
・三男の秀保は叔父・秀長の娘と結婚し養子となるが、子を作る前に17歳で急死している。

異父弟にあたる秀長は温厚な人物で、内外の政務および軍事面で秀吉を支えた。
諸大名の中にも秀長を信頼している者が多くあり、転職王と呼ばれた藤堂高虎も秀長が52歳で病死するまで配下にいた。
彼が長生きしていれば豊臣政権が存続した可能性があったかもしれない。
秀長の子女は、夭逝した男児の他は男子がおらず、長女は前述の秀保と結婚するも、子はいなかった模様。
次女の菊は毛利秀元に嫁ぐも妊娠中に死去。秀長の家系は子の代で断絶している。

妹の旭は、農民(秀吉の出世で武士となる佐治日向守)に嫁いでいたが、家康と和議を結ぶための政略結婚の道具として44歳で無理やり離婚させられ、徳川家へ正室(継室)として嫁いだ。
高齢であったため子は出来ず、47歳で病死している。

その他、秀吉の親類としては、母・なかの妹の息子(秀吉の従兄弟にあたる)福島正則や、母同士が従兄弟であり、秀吉とは又従兄弟にあたる加藤清正が知られる。
福島正則、加藤清正は幼い頃からおねが可愛がって育てたため、おねを「おかか様」と慕ったとされる。

秀吉は、妻であるおねの親戚も家臣や養子として取り立てており、関ヶ原にて西軍を裏切った小早川秀秋はおねの兄・木下家定の息子であり、五奉行の1人・浅野長政はおねの養父・浅野長勝の甥にあたる。

 

身分低すぎるがゆえの「姓」の変遷

名字について、木下と羽柴については先に述べたが、身分の低かった秀吉に「本姓」はなかった。

秀吉は、天正11年(1583年)の従四位下参議から天正13年の内大臣まで「平秀吉」を名乗っている。
これは本姓がなかったため、主君であった織田信長の本姓(織田氏は桓武平氏の流れを汲むと言われる)を真似たと考えられる。

関白の就任にあたり、前関白・近衛前久の猶子となった秀吉は、姓を平から「藤原」に改めた。
そしてその後、正親町天皇から豊臣を本姓として賜り、使用するようになる。

 

中世から近世へのターニングポイントとなった太閤検地

本編で触れなかったが、試験には頻出する秀吉の政策を一つ補足しよう。

秀吉の検地(土地の再調査=増税)は、太閤検地と呼ばれる。
日本中が、石高を代表とする同じ基準で測量や土地の価値が統一され、日本経済史上、重要な出来事だ。

天正18年(1590年)の奥羽仕置までは、占領地に限定して行われたが、その後は、豊臣政権の重要な政策として全国で実施。
石高がわかると、その田畑で養える人口が計算できる。すなわち、動員可能な兵力がわかる。

特に文禄の役(朝鮮出兵)後に、広範囲に検地が行われていることから、朝鮮での兵糧を確保する目的があったとみられている。

秀吉を支えた偉大過ぎるNO.2豊臣秀長 その功績がワンダホー!

文:武将ジャパン編集部



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【参考資料】
名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集一』(吉川弘文館)
服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(河出書房)
藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書)
藤井譲治『日本近世の歴史1 天下人の時代』(吉川弘文館)
戦国武将の死亡診断書 酒井シヅ (株)エクスナレッジ
戦国武将の履歴書 クリエイティブ・スイート 宝島社
超ビジュアル!歴史人物伝 豊臣秀吉 西東社
wikipedia/豊臣秀吉他
http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000010622.html

 

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