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織田家 その日、歴史が動いた 豊臣家

秀吉、死せる信長を金箔で踊らせる【その日、歴史が動いた】

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歴史上、ハッタリや見栄でピンチを乗り越えた人というのは珍しくありません。
もちろん誰もが成功するわけではありませんが、記録に残っている人はそれでうまくいったからこそ話が伝わるわけですしね。
あの秀吉にも、そんな出来事がありました。

天正十年(1582年)の10月15日、豊臣秀吉が信長の「葬儀」を行い、織田家内での立場を決定付けました。

本能寺の変で織田信長が亡くなったのは6月2日ですから、葬儀というよりも正確には「百か日法要」ですね。
「百か日法要」とはその名の通り、故人が亡くなった後百日めの前後に行われる法事です。
現代では四十九日と兼ねたり、省略されることが多いのですが、かつては遺産相続や遺品の整理などをこの日までに済ませ、故人にその報告をして安心してもらうために行う大切なものでした。
いまでも有名人の葬儀の後、ファンによって「偲ぶ会」などが開かれるのはこの百か日法要あたりの日だそうです。
覚えておくとちょっと便利かも?

絵・富永商太

「おいらの才覚すごいだろ」絵・富永商太

さて、法事をすることによって秀吉に何のメリットがあるのかというと、織田家の後継者と大きく関わってきます。
普通、当主が亡くなれば長男が跡を継ぐのが道理です。
とはいえ、信長は生前既に長男・信忠(のぶただ)へ家督を譲っていました。形式上は信長ではなかったというのがポイントです。
本能寺の変のときは信長とは別行動をしていて、妙覚寺という別のお寺に泊まっていたので逃げることもできたのですが、信忠は父親の救援に向かいます。
しかし時既に遅く、信長は自害した後でした。
それでも信忠は「自分だけ逃げるわけにはいかない!せめて光秀と刺し違えてやる!」と奮い立ち明智軍と戦います。
ですが衆寡敵せず、信忠もまた自害してしまったのです。
ここでもし信忠が逃亡・再起の道を選んでいたら、日本史はかなり変わっていたでしょうね。

織田家も毛利家と同じく孫の手に

信忠はこのときまだ26歳の若者で、跡継ぎになるべき男の子・三法師(後に織田秀信)はいたのですがまだ2歳。
形だけ家督を継いだとしても、よほどしっかりした後見人がいなければ織田家そのものが危うくなるのは目に見えています。
そこで名乗りを上げたのが秀吉だったのです。

これに対し、「いやいや、年齢からいけばここは信長様のご三男信孝様がいいだろう」と言い出したのが柴田勝家。
しかし信孝は他の家(神戸家)に養子に出ていたこともあり、間を取って「三法師が家督を継ぎ、信孝が織田家に戻って後見人を務める」ことで決着しました。
この案を出したのが秀吉だったため、実質的には秀吉が後見人になったも同じことになってしまったのです。
ちなみに次男・信雄(のぶかつ)はやはり他の家(北畠家)へ養子に出ていた上、信長が一度親子の縁を切ろうとしたほどのアホだったためか、候補にすら上がりませんでした。
満場一致でアホ扱いってどんだけ。
でも後々大名として残った家柄は信雄の系統だけなので、世の中不思議なものです。
アホだから無害だと思われたとかそんなまさか。

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某ブランドのように死に人の取り合い

話し合いで決まったこととはいえ、信長の父・織田信秀の代から仕えてきた勝家としては面白くありません。
そこで勝家は信長の妹・お市の方を喪主として、京都の妙心寺で信長の百か日法要を営みます。
これにより、筆頭家老としての立場を示そうとしたのでしょう。
Myōshin-ji (妙心寺) is a temple complex in Kyoto, Japan - 無料写真検索fotoq
photo by Mal B

が、秀吉もこれに負けじと大徳寺の総見院という別のお寺で法要を執り行います。
こちらは10月11日から始まって17日までの7日間を費やし、15日に葬儀を行うという大規模なもの。
しかも秀吉好みのド派手なキンキラキンの棺に、信長そっくりの木像を収めて火葬にするという手の込みようでした。
遺体が見つからなかったので、代わりに木像をというわけです。
さらにはその棺の後に秀吉が信長の太刀を捧げて付き従い、さらにその後ろには3000名を超える列席者が並んでいたそうです。
火葬場への間も完全に武装した兵が3万人も警護しており、見物好きな京童やその父母兄弟がぞくぞくと集まってごった返していたとか。

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京都の民衆を味方につけた秀吉

この見物人というのが意外と重要です。
Temple Among the Trees(大徳寺) - 無料写真検索fotoq
photo by Paul Davidson
現代に置き換えると口コミ合戦、あるいは世論を味方につけるとも言えましょうか。
派手派手な葬儀を執り行うことによって、秀吉は「あんなにすごい葬儀をできる秀吉という人は力があるに違いない。次に天下を取るんじゃないか」という期待と予測を列席者や見物客に抱かせることができたわけです。
実際には秀吉はまだ織田家中でナンバー1になったわけでもなく、身分もさして高くはありません。
しかしイメージを先行させて、民衆という味方を得たことになります。
これで今後京都で活動する際、いろいろと便宜を図ってもらいやすくなったのです。
流石は「人たらし」の秀吉、人の心を掴む術を熟知しています。

この死者を利用した盛大なアピール合戦により、秀吉と勝家・信孝の仲はますますこじれて戦になり、信孝を自害させた秀吉は信長に化けて出られるのでした。
めでたくなしめでたくなし。

そうだ京都へ行こう!信長に会いに

第六天魔王とかひどいこと言わないでよ・・・

これだけだと後味が悪いので、現代のお話を。
信長の葬儀が行われた二つのお寺は現在も同じ京都市内にあり、直線距離にして2km程度しか離れていません。
妙心寺は通年見学OK、総見院は春と秋の限定公開となっています。
今ちょうど総見院は見学できる時期ですし、信長ファンの方は紅葉狩りついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
何日か拝観休止日もあるので、事前に調べておいたほうがいいかも。
信長のお気に入りだった細川忠興とその妻・ガラシャのお墓がある高桐院も、同じ大徳寺というお寺の塔頭(所属)ですので一緒に回れます。

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紅葉の時期に関わらず、戦国武将ゆかりのお寺を巡ってみるのも京都の楽しみ方の一つですよね。
うう、京都の方がうまやらしい!
長月七紀・記
参考: 京都観光HP




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