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その日、歴史が動いた 島津家

鬼の島津軍の激勝「耳川の戦い」後編 神に祈ってる場合じゃないYO!【その日、歴史が動いた】

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さて、本日はきのうに続いて、九州の関ヶ原といわれる「耳川の戦い」後編です。
前日に大敗北を喫した大友家ですが、残念なことにそれだけでは終わりませんでした。もちろん悪い意味で。

天正六年(1578年)の11月12日、この合戦の名前になった耳川で大友家が島津家に追い討ちをくらいました。
何がスゴイかって、耳川ではロクに戦っていないことです。
別に、「この川で敵の耳を切り落として流した」とかそういうわけではありません。太閤はやってますけど。
前日夜の流れから見てみましょうか。

元々士気が下がりつつあるところに負けてしまった大友軍は、すっかりまとまりを欠いていました。
「そもそも殿が南蛮の宗教なんかにハマるからこんなことに……」
「お前だって止めなかったじゃん」
「オレは反対してた!」
「どうでもいいわい。今は目の前の敵が先だろ!」
「何だとこの野郎!」
「ハイハイハイ!こうなったら突撃しかないと思います!!」
「勝てるわけねーだろアホか!」
「とにかく、殿にご指示をいただくことにしようそうしよう」
(この隙に裏切ったれ)
……だいたいこんな感じで、軍議(作戦会議)すらまともにできない始末。
こんな状態でよく戦を続けようと思ったものです。

 

やってらんねぇー特攻じゃー

この有様に一番腹を立てていたのは、田北鎮周(しげかね)という武将でした。
彼は大友家の親戚にあたる家柄で、武功もあり内外に勇将として知られていた人です。
鎮周は一人「これじゃ、どっちにしろ無事には帰れない。ならせめて島津に一矢報いてやる!!」とアツい覚悟を決め、部下達の士気を上げるべく酒宴を開きました。
もちろん、ただ飲んだくれるためではなく今生の別れの意味をこめた宴です。
一説には、田北隊だけでなく他の隊でも別れの盃を交わしていたとか。

こうして腹を据えた鎮周は、翌朝12日の早朝こっそり進軍を開始します。
対峙している島津軍のうちで一番近い隊を狙ったのです。
奇襲には成功しましたが、準備が整っていなかったのは味方も同じ。
別の隊も慌てて田北隊を追い、進軍を開始します。

こうなるとどっちもどっちでgdgdになりそうなものですが、そこは流石「鬼」と称される島津軍。
高台にいた総大将・義久はこの動きを察知し、「どうせ崩れているのだから、前線部隊には囮になってもらおう」とほくそ笑みました。
勢いに乗った部隊ほど、釣りやすいものはないですからね。
義久は「釣り野伏せ」の準備を命じつつ、自らも出陣します。

 

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島津の御家芸「釣り野伏せ」きたーーー!

釣り野伏せとは島津軍のお家芸と言ってもいい戦法の一つ。
まずAという部隊がわざと敵に押されるふりをして後退します。
その間にB・Cの部隊が敵の側面に回りこみ、隠れます。
A隊がB・C隊の目の前まで敵を引き込んだところで、三隊連携してフルボッコという戦い方です。
演技が大変だからか、A隊には「君達囮だから頑張って」なんてことは知らされないことも多かったそうですが。
耳川の戦いもおそらくそうだったのでしょう。
いずれにせよ統制と連携の取れている軍でなければまずできない方法ですから、これが得意なこと自体が島津家の結束を物語っていますね。

前日に続いてキリシタンなのに肖像画は法衣の大友宗麟さん(Wikipediaより)

前日に続いてキリシタンなのに肖像画は法衣の大友宗麟さん(Wikipediaより)

 

一方、宗麟はといえばはるか後方で「ワシはお主らが勝つよう、デウス様に祈っておるからな!GodBlessYOU!」という体たらく。
これじゃ死ぬ覚悟を決めたくもなろうというものです。
親と上司は選べないとはいえ、同じ九州でこの差は一体……。

田北隊をはじめとした大友軍は最初から生きて帰れると思っていませんから、退いていく島津軍をひたすら追いかけます。
まさにわき目も振らずという様相だったでしょう。
そして島津本陣寄りに位置していた高城川という川に来たところで、一気に情勢が変わりました。
島津義弘はもちろん、伊集院忠棟(ただむね)など島津の誇る精鋭達が一斉に大友軍へ襲い掛かったのです。
さらに義久隊も追撃を加え、釣り野伏せにバッチリひっかかってしまった大友軍は後退するより他にない状況へ追い詰められました。

島津義久像(Wikipediaより)

 

が、背後は今しがた渡ってきたばかりの高城川。
元々困難を極める渡河戦で、攻めるならともかく退却を成功させるなんて無理ゲーにも程があります。
案の定、ここで大友軍のうちかなりの人数が命を落としました。
死ぬ覚悟を決めた割には往生際が悪いとかツッコまない。

運良く川を渡りきれた兵も、今度は高城からの追撃をくらいます。
この頃には前線にいた大友軍の武将はほとんど討ち死にしてしまっており、後は本陣にいた人たちだけ。
彼らも敗走してくる味方とともに、急いで撤退を開始します。
目指すは25kmほど北上したところにある耳川。
その先は完全に大友家の勢力内ですから、いかに島津軍でも追ってこないと考えたのでしょう。

しかしそこに気付かない島津軍ではありません。
大友領に入られる前にはカタをつけようと、それまでにも増して進軍を早めました。
そして大友軍が耳川を渡りきる直前に追いつきます。
ほうほうの態で逃げてきた大友軍に最早応戦する力は残っておらず、パニック状態に陥った兵士の多くが自ら川に飛び込んで溺死したそうです。
つい先日までの雨で耳川はかなり増水しており、そもそも渡ること自体が難しくなっていたのも拍車をかけました。
耳川の戦いでの大友軍死者は約3000人といわれているのですが、その大半は耳川での溺死もしくはそこで戦死したのだとか……。
一番人が死んだ場所の地名が戦の名前になったんですね。


大きな地図で見る

 

夢の「シーガイア」計画潰えるが、秀吉に救われた大友さん

この知らせを受けた宗麟も最早お祈りどころではありません。
一目散に本拠へ向かいますが、取るものもとりあえずどころか身体一つに近い状態だったため、これまた撤退には困難を極めました。
九州とはいえ冬も深まりつつある中の話ですから、容赦なく冷気と飢えが大友軍を襲います。
こうして宗麟のお花畑……じゃない、キリシタン楽園計画はあっという間に崩れ去ったのでした。

多くの人材や兵士を失った大友家を、もう一つの雄・竜造寺家も見逃しません。
さらに大友家内では、残った家臣達も仲間割れする始末。
幸いなことに、この後竜造寺家は島津家と戦になったため、大友家はしばらくの間体勢を立て直す時間ができました。
が、島津家が勝った後は再び大友家に食指を伸ばすわけで。
このまま大友家は滅びるかに見えましたが、ところがどっこいなかなかしぶとく生き延びます。

この間に中央では本能寺の変が起き、清須会議が終わって秀吉が柴田勝家とケンカし、家康とも殴りあい、何とかまとまりを見せていました。
これを聞きつけた宗麟は、「もうあそこに頼るしかない!」と覚悟を決め、自ら大坂まで出向いて秀吉に救援を要請します。
大友家は鎌倉時代から続いた名家ですから、どこの馬の骨とも知れない秀吉に頭を下げるのは相当勇気が必要だったでしょうね。

「名門好きよ」(秀吉)絵・富永商太

イラスト・富永商太

しかし、この決断が大友家を救いました。
秀吉は元の身分が低い故に、身分が高い人に認められるのが大好き。
この救援を受けてやれば、九州へ出兵する大義名分が立つ上、最初から足がかりができているので戦がしやすくなります。
利害一致と見た秀吉は、気前良く宗麟の要請を受けました。

こうして九州の情勢は大友vs島津から豊臣(大友含む)vs島津という構図に変わり、少しずつ日本統一の兆しが見えてくるのです。

長月七紀・記

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http://ja.wikipedia.org/wiki/島津義久

 

 

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