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【耳川の戦い】
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島津の精鋭たちが一気に襲いかかった
田北隊をはじめとした大友軍は最初から生きて帰れると思っていません。
ゆえに退いていく島津軍をひたすら追いかけます。
釣り野伏せを仕掛ける側にとっては願ってもない展開。まさにわき目も振らずという様相だったでしょう。
そして島津本陣寄りに位置していた高城川という川に来たところで、一気に情勢が変わりました。
島津義弘はもちろん、伊集院忠棟(ただむね)など、島津の誇る精鋭達が一斉に大友軍へ襲い掛かったのです。
さらに義久隊も追撃を加え、釣り野伏せにバッチリひっかかってしまった大友軍は後退するより他にない状況へ追い詰められます。
しかし、背後にあるのは、今しがた渡ってきたばかりの高城川。
元々困難を極める渡河戦で、攻めるならともかく退却を成功させるなんて無理ゲーにも程があります。
案の定、ここで大友軍のうちかなりの人数が命を落としました。死ぬ覚悟を決めた割には往生際が悪いとかツッコまない。
運良く川を渡りきれた兵も、今度は高城からの追撃をくらいます。
この頃には前線にいた大友軍の武将はほとんど討死してしまっており、後は本陣にいた人たちだけ。
敗走してくる味方と共に、彼等も急いで撤退を開始します。
耳川の手前でパニック! 次々に溺死&戦死する
目指すは25kmほど北上したところにある耳川でした。
その先は完全に大友家の勢力内ですから、いかに島津軍でも追ってこないと考えたのでしょう。
しかしそこに気付かない島津軍ではありません。
大友領に入られる前にはカタをつけようと、それまでにも増して進軍を早めます。
そして大友軍が耳川を渡りきる直前に追いつくのでした。
ほうほうの体で逃げてきた大友軍。
もはや応戦する力は残っておらず、パニック状態に陥った兵士の多くが自ら川に飛び込んで溺死しました。
つい先日までの雨で耳川はかなり増水しており、そもそも渡ること自体が難しくなっていたのも拍車をかけています。
結果、耳川の戦いでの大友軍死者は約3,000人(4,000人あるいは2万人とも)といわれているのですが、その大半は耳川での溺死もしくはそこで戦死したのだとか……。
一番人が死んだ場所の地名が戦の名前になったんですね。
龍造寺と島津が戦ってる間に……
この知らせを受けた宗麟は、もはやお祈りどころではありません。
一目散に本拠へ向かいますが、取るものもとりあえず身体一つに近い状態だったため、これまた撤退には困難を極めました。
九州とはいえ、冬も深まりつつある季節ですから、容赦なく冷気と飢えが大友軍を襲います。
こうして宗麟のお花畑……じゃなくて「キリシタン楽園計画」はあっという間に崩れ去ったのでした。
多くの人材や兵士を失った大友家を、もう一つの雄・竜造寺家も見逃しません。
大友家内では、残った家臣達も仲間割れする始末。
幸いなことに、この後、竜造寺家は島津家と戦になったため、大友家はしばらくの間、体勢を立て直す時間ができました。
が、島津家が龍造寺に勝つと、次はまたもや大友家に食指を伸ばすわけで。
このまま大友家は滅びるかに見えましたが、ところがどっこい、なかなかしぶとく生き延びるのです。
中央の情勢が大きく動いていたのです。
もう秀吉さんに頼るしかない
織田信長が【本能寺の変】で明智光秀に殺され、【山崎の戦い】を経て清須会議が終わると、豊臣秀吉が柴田勝家とケンカ(賤ヶ岳の戦い)。
徳川家康とも殴りあいながら、何とかまとまりを見せていました。
そして気がつけば豊臣秀吉が台頭していたのです。
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
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これを聞きつけた宗麟は、「もう頼るしかない!」と覚悟を決め、自ら大坂まで出向いて秀吉に救援を要請します。
大友家は鎌倉時代から続いた名家ですから、どこの馬の骨とも知れない秀吉に頭を下げるのは相当勇気が必要だったでしょう。
しかし、この決断が大友家を救いました。
秀吉は元の身分が低い故に、身分が高い人に認められるのが大好き。
この救援を受けてやれば、九州へ出兵する大義名分が立つ上、最初から足がかりができているので戦がしやすくなります。
利害一致と見た秀吉は、気前良く宗麟の要請を受けました。
こうして九州の情勢は
【大友vs島津】
から
【豊臣vs島津】
という構図に変わり、少しずつ日本統一の兆しが見えてくるのです。
なお、島津四兄弟については、各人にスポットを当てた記事が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください(島津貴久は四兄弟の父となります)。
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長月七紀・記
【参考】
栄村顕久『島津四兄弟―義久、義弘、歳久、家久の戦い―(南方新社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)