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【耳川の戦い】
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戦上手の家久が密かに入城していた
さぞかしノリノリだったであろう大友宗麟。
早速、国崩しを城めがけてぶっ放し、「篭城しても無駄だぜ!」ということを高城の城兵たちに知らしめようとします。
しかし、いかんせん設置場所に問題がありました。
国崩しは、高所から打ち込まなければ思うように威力を発揮できません。
平地に設置したところで高所にある高城には効果を出せず、扱いに不慣れな新兵器がそうそう上手く当たるわけはありませんでした。
家康が大坂冬の陣でも似たようなビビラセ戦法を使ってますので、宗麟も着眼点としては悪くなかったんですけどね。残念。
そうこうしている間に、城には島津の援軍がこっそり入っておりました。
問題は、その援軍の将です。
兄弟の中でも戦上手と知られる四男・島津家久が……。
家久はすぐ近くの佐土原城(さどわらじょう)に入っていたので、すぐに動くことができたのです。
島津ファン、胸アツな展開ですよね。
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そこへさらに長兄・義久が3万もの兵を率いてやってきたのですから、篭城側の士気も自ずと上がります。
とはいえ兵数はほぼ互角。
しばらく両軍にらみ合いが続きました。
戦局を打ち破ったのは雨でした。
大友軍は「こんな天気の悪い日に、戦に出てくることもなかろ」と油断しきり。
島津軍はその裏をかいて着々と準備を進め、二男・義弘が本陣を離れると、大友軍の合間を縫うようにして兵を伏せていたのです。
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そして雨も上がった11月11日。
島津軍は大友軍の布陣を絶つように奇襲を仕掛け、さらに篭城していた兵とも連携し攻撃をしかけると、圧勝を収めたのでした。
このとき既に大友軍の戦死者は数百を超えていましたが、戦いはまだまだ終わりません。
天正六年(1578年)11月12日、この合戦の名前になった耳川で大友家が島津家の追い討ちを食らうのです。
何がスゴイかって、耳川で大友軍はロクに戦えていないことでしょう。
大友家の勇将・田北鎮周が島津への突撃を決意
元々士気が下がりつつあるところに負けてしまった大友軍は、すっかりまとまりを欠いていました。
「そもそも殿が南蛮の宗教なんかにハマるからこんなことに……」
「お前だって止めなかったじゃん」
「オレは反対してた!」
「どうでもいいわい。今は目の前の敵が先だろ!」
「何だとこの野郎!」
「ハイハイハイ!こうなったら突撃しかないと思います!!」
「勝てるわけねーだろアホか!」
「とにかく、殿にご指示をいただくことにしようそうしよう」
(この隙に裏切ったれ)
超訳するとこんな感じで軍議(作戦会議)すらまともにできない始末。
よく戦を続けようと思ったレベルで、この有様に一番腹を立てていたのは、田北鎮周(たきたしげかね)という武将でした。
彼は大友家の親戚にあたる家柄で、武功もあり内外に勇将として知られていた人です。
鎮周は一人「これじゃ、どっちにしろ無事には帰れない。ならせめて島津に一矢報いてやる!!」とアツい覚悟を決め、部下達の士気を上げるべく酒宴を開きました。
もちろん、ただ飲んだくれるためではなく今生の別れの意味をこめた宴です。
一説には、田北隊だけでなく他の隊でも別れの盃を交わしていたとか。
こうして腹を据えた鎮周は、翌朝12日の早朝、こっそり進軍を開始します。対峙している島津軍のうちで一番近い隊を狙ったのです。
奇襲には成功しました。
が、準備が整っていなかったのは味方も同じ。
別の隊も慌てて田北隊を追い、進軍を開始します。
こうなると、どっちもどっちでグダグダになりそうな場面ですが、そこは「鬼」と称される島津軍。
高台にいた総大将・義久がこの動きを察知し「どうせ崩れているのだから、前線部隊には囮になってもらおう」とほくそ笑みました。
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勢いに乗った部隊ほど、釣りやすいものはないですからね。
義久は【釣り野伏せ】の準備を命じつつ、自らも出陣しました。
島津の御家芸「釣り野伏せ」
釣り野伏せとは、島津軍のお家芸と言ってもいい戦法の一つです。
3ステップで説明しますと……。
①まずAという部隊がわざと敵に押されるふりをして後退する
②その間にB・C部隊が敵の側面に回りこんで隠れる
③A隊がB・C隊の目の前まで敵を引き込んだところで、三隊連携でフルボッコ!
演技が大変だからなのか。
A隊には「君たち囮だから頑張ってね♪」なんてことは事前に知らされないことも多かったそうで。
耳川の戦いもおそらくそうだったのでしょう。
この釣り野伏せというおは、統制の取れている軍でなければまずできない方法ですから、これが得意なこと自体が島津家の結束を物語っています。
一方、宗麟はといえば、はるか後方で「ワシはお主らが勝つよう、デウス様に祈っておるからな!God Bress You!」という体たらく。
これでは死を意識するのも無理はありませんよね。
親と上司は選べないとはいえ、同じ九州でこの差は一体……。
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