織田信長の甥っ子・津田信澄って優秀だけど不遇なの><; 父・信行は信長に殺され、最期は……

こと歴史と申しますと、有名な人物に目が行きがちですよね。
しかし、その周囲に目を配ると、地味に功績を残した人や、悲劇が隠れていることも……。本日は日本史上における一大事件の陰で、悲惨な目に遭ってしまったとある人のお話です。

天正十年(1582年)6月5日は、津田信澄が殺された日です。

織田信長とかつて家督争いをした弟・信行(信勝)の息子で、信長にとっては甥っ子にあたります。この時点で、何となく想像がついた方もいらっしゃるでしょうか。

安土城跡にある津田信澄邸跡/Wikipediaより引用

 

蘭奢待の切り取りを許されたときには奉行となっていた

普通、家督争いが激化したときは後の禍根を断つため、一族まるごと処分するのが定石です。
が、信長はそうはしませんでした。
信長・信行の母である土田御前の助命嘆願や、信長は基本的に身内に甘いという他に、決して勢力が大きくはない織田弾正忠家(信長の家・織田家の本筋から見れば庶流)で、一番味方になってくれそうな血縁者をわざわざ減らしたくなかったのかもしれません。

当時信澄はまだ2~3歳で、物心つくかつかないかくらいの年齢でもありますから、教育の仕方によっては禍根も残りませんし。
織田姓から津田姓に変えさせたのはけじめでしょうね。津田家は織田家の親戚筋という扱いですから、悪すぎるというわけでもありません。

彼の人格については、特にエピソードがありません。
しかし、元服した後に信長主催の茶会に出たり、信長が正親町天皇から蘭奢待(東大寺正倉院にある天下一の香りとされる香木)の切り取りを許されたときには奉行を務めているので、かなり若いうちから信長の信頼を得ていたものと思われます。

 

京都御馬揃えでも一門衆の5番目ポジション

天正三年(1575年)の越前一向一揆で初陣を果たし、その後は近江に領地を与えられたり、明智光秀の丹波攻略に参戦しました。
その後光秀の四女を正室にもらって、天正七年(1579年)に長男が生まれています。

石山本願寺との戦いや荒木村重征伐にも参加したり、信長の趣味兼人材発掘の場である相撲興行でも奉行を務めました。堀秀政蒲生氏郷などと一緒にやっているので、両者と同じくらいの扱いは受けていたのでしょう。
信長の一大軍事パレードである京都御馬揃えの際も、一門衆の五番目に位置していました。これは信長の長男・次男・弟・三男の次にあたります。

とはいえ欲がなかったわけではなく、伊賀平定の際は自ら大和(現・奈良県)を希望して諌められたこともありました。ただ、その後も四国攻め計画で大阪駐屯を命じられたり、丹羽長秀とともに家康の接待を命じられているので、さほど悪くは思われていなかったようです。
光秀という重臣の娘を嫁にもらっていることからも、信長は信澄を「将来の織田家を支える人物」の一人にするつもりだったのではないでしょうか。他に信長のお気に入りで若い武将というと、細川忠興や蒲生氏郷がいますが、忠興は光秀の娘、蒲生氏郷は信長の娘と結婚しています。
つまり、信長は信用している若者ほど自分や重臣の娘を嫁がせたことになりますよね。まあ、どこの大名でも似たようなものですが。

ですが、信澄にとってはこれが仇になってしまいました。

 

「光秀の娘婿だから、謀反にも協力しているに違いない!」

本能寺の変の後、「光秀の娘婿だから、この度の謀反にも協力しているに違いない!」と疑われて、信長の三男・信孝と丹羽長秀に攻め滅ぼされてしまったのです。首は堺で晒され、本来ならば受けるはずのない辱めに遭いました。

上記の通り、信澄の性格については、評価が分かれています。
というのも、ルイス・フロイスは「異常なほど残酷で、皆が彼の死を望んでいた」と書いており、逆に興福寺の多聞院英俊という僧侶は「一段の逸物」というかなりの高評価をしているのです。
おそらくはキリスト教にそぐわないことをしていたからフロイスの評価が厳しく、日本人かつ仏教の僧からすればおかしくはなかったのでしょう。
そうでなければ、首が晒されたときに一般人が何かしら悪意ある反応をしたことが記録されているでしょうから。

また、不思議なことに、信澄の子供たちや弟はこのタイミングでは誅殺されていません。

長男・織田昌澄(まさずみ)は藤堂高虎に仕えて文禄の役に出た後、豊臣家に仕えて大阪冬の陣に参戦し、高虎隊と戦いました。
大阪城が落ちた後は徳川軍に降伏し、高虎のとりなしもあって助命されています。その際出家したのですが、大坂の陣から三年後に秀忠に旗本として召し出され、還俗しました。
その後2000石取りになり、子孫も残し、本人は家光の時代まで生きています。

 

息子・昌澄は旗本として生き残る

信澄の弟・信糺(のぶただ)は元々信長の次男・信雄に仕えていたためかお咎めがありませんでした。
後に蜂須賀家に仕え、やはり家光の時代まで生きたといいます。

もう一人の弟・信兼は信孝に仕えており、信孝が秀吉に攻められて自害するまで仕え続けました。

……信澄が本当に光秀に加担していたとしたら、信包に連絡を取り、信包に信孝の寝首を掻かせていそうなものですけどね。信長の長男・信忠が逃げなかったのは偶然ですし、信孝も信長の後継者候補にはなるわけですから。その辺、信孝はどう思っていたんでしょうか。

当コーナーとしては、「本能寺の変は光秀の単独犯行説」を推しているので、疑いだけで殺されてしまった信澄が哀れでなりません。
もしくは、細川家のように即座に身の振り方を明らかにすれば、助かる道もあったのでしょうか。

信澄は28歳という若さで非業の死を迎えましたが、昌澄の家が旗本として存続し、幕末まで続いているのがせめてもの慰めでしょうかね……。

長月 七紀・記

参考:津田信澄/Wikipedia 織田昌澄/Wikipedia 津田信糺/Wikipedia 織田信兼/Wikipedia

 








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