織田信澄

安土城にある織田信澄邸跡(右側には森蘭丸)/wikipediaより引用

織田家

信長の甥で光秀の婿だった津田信澄~本能寺後に迎えた最悪の結末とは

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津田信澄
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その後も四国攻め計画で大阪駐屯を命じられたり、丹羽長秀とともに家康の接待を命じられているので、これで信長の心証が悪化したというわけでもなさそうです。

これらの待遇からして、やはり信長は信澄を「今後の織田家を支える人物」の一人にするつもりだったのでしょう。

しかし、信澄にとってはそれがあだになってしまいました。というのも……。

 

「謀反にも協力しているに違いない!」

あだとは他でもありません。

本能寺の変が起きた後、

「光秀の娘婿だから、この度の謀反にも協力しているに違いない!」

と疑われて、信長の三男・信孝と丹羽長秀に攻め滅ぼされてしまったのです。

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しかも首は堺で晒され、本来ならば受けるはずのない辱めに遭いました。

生年に諸説あるため、享年もはっきりしませんが、30以下であることはほぼ確実だと思われます。

戦国の世のならいとはいえ、生い立ちにしても最期にしても、あまりにむごい生涯。

上記の通り、信澄の性格については、評価が分かれています。

ルイス・フロイスは「異常なほど残酷で、皆が彼の死を望んでいた」と書いており、逆に興福寺の多聞院英俊という僧侶は「一段の逸物」というかなりの高評価をしています。

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おそらくやキリスト教にそぐわないことをしていたからフロイスの評価が厳しく、日本人かつ仏教の僧からすればおかしくはなかったのでしょう。

そうでなければ、首が晒されたときに一般人が何かしら悪意ある反応をしたことが記録されているでしょうから。

信孝が信澄を槍玉に挙げたのも、もしかしたら宗教観の違いからかもしれません。

というのも、信孝はかなりキリスト教に傾倒しており、宣教師から高く評価されていました。

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となると、信澄に対して

「あいつ、父上の慈悲で生かされているくせに態度デカすぎ! しかも素晴らしい神の教えを理解しないなんて、これからの日本には必要ない! 邪魔だ!!」

というような悪印象を抱いていても、不自然ではないですよね。

 

息子・昌澄は旗本として生き残る

不思議なことに、信澄の子供たちや弟はこのタイミングでは誅殺されていません。

長男・織田昌澄(まさずみ)は藤堂高虎に仕えて【文禄の役】に出た後、豊臣家に仕えて大坂の陣に参戦し、高虎隊と戦いました。

大坂城が落ちた後は徳川軍に降伏し、高虎のとりなしもあって助命されています。

その際、出家したのですが、大坂の陣から三年後に徳川秀忠に旗本として召し出され、還俗しました。

そして2,000石取りになり、子孫も残し、本人は徳川家光の時代まで生きています。

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信澄の弟・織田信糺(のぶただ)は元々信長の次男・織田信雄に仕えていたためか、お咎めはありませんでした。

後に蜂須賀家に仕え、やはり家光の時代まで生きたといいます。

もう一人の弟・織田信兼は織田信孝に仕えており、信孝が豊臣秀吉に攻められて自害するまで仕え続けました。

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信澄が本当に光秀に加担していたとしたら、信包に連絡を取り、信孝の寝首を掻かせていそうなものですけどね。

信長の長男・織田信忠が逃げなかったのは偶然ですし、信孝も信長の後継者候補にはなるわけですから。

その辺、信孝はどう思っていたんでしょうか。やはり宗教が一番の理由だった?

絵・小久ヒロ

個人的に「本能寺の変は光秀の突発的単独犯行説」を推しているので、疑いだけで殺されてしまった信澄が哀れでなりません。

もしくは、細川家のように即座に身の振り方を明らかにすれば、助かる道もあったのでしょうか。

信澄は若くして非業の死を迎えましたが、昌澄の家が旗本として存続。

幕末まで続いているのがせめてもの慰めかもしれません。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
太田牛一/中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
津田信澄/Wikipedia
織田昌澄/Wikipedia
津田信糺/Wikipedia
織田信兼/Wikipedia

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