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【津田信澄】
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父の信勝が謀殺された時は正真正銘の幼児です。
子供を殺すのが忍びなかったというよりは、
「禍根が残らないなら、親族の結束を説いて有効活用すべき」
だと判断したのではないでしょうか。
もちろん、うまく行かなかったときは文字通り斬り捨てることも考えたでしょう。
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蘭奢待切り取りの奉行も務めた
幸い、信澄もその弟たちも、大きな問題は起こさずに成長しました。
信澄個人の性格や暮らしぶりについては、目立ったエピソードがないほどです。
生い立ちを考えれば、順調すぎるほど順調だったからこそ、何も伝わらなかったのでしょう。
元服後には信長主催の茶会に出たこともありますし、信長が正親町天皇から蘭奢待の切り取りを許されたときには、奉行の一員を務めています。
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蘭奢待の件が1574年ですので、信澄は数えで20歳を超えたかどうかといったところ。
日頃の態度や能力に問題がなく、若いうちから信長の信頼を得ていたものと思われます。
1578年あたりからは津田姓を名乗っていたようで、同時期に従兄弟である織田信忠に従い、戦場へもたびたび赴くようになります。
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京都御馬揃えでも一門衆の5番目ポジション
初陣を果たしたのは天正三年(1575年)の越前一向一揆です。
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その後は近江に領地を与えられたり、明智光秀の丹波攻略に参戦。
程なくして光秀の娘を正室にもらい、天正七年(1579年)には長男も生まれています。
さらに、石山本願寺との戦いや荒木村重征伐にも参加したり、信長の趣味兼人材発掘の場である相撲興行でも奉行を務めました。
堀秀政や蒲生氏郷などと一緒にやっているので、重臣だった両者と同じくらいの扱いは受けていたのでしょう。
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信長の一大軍事パレードである【京都御馬揃え】の際も、一門衆の五番目に位置しています。
これは信長の長男・次男・弟・三男の次ですから、決して低い立ち位置ではありません。
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とはいえ欲がなかったわけでもなさそうです。
伊賀平定の際は、自ら大和(現・奈良県)を希望して、諌められたこともありました。
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