男女関係なく愛されている日本の代表的麺類ラーメン。
そもそもは中国ルーツであることは何となく脳裏にあるでしょうが、では【ラーメンの歴史】は、日本でいつ始まり、どうやって各地へ分散していったのか?となると、なかなか知り得ない状況かと思われます。
今や世界食になったと言ってもいい日本の誇る食文化――。
その足跡を追ってみたいと思います。
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そもそもラーメンとは何か?
かつて【日本で初めてラーメンを食べた人物】として名前があがっていたのは水戸光圀です。
最近この記録が書き換えられ、室町時代の長享2年(1488年)に
【中国の麺類「経帯麺」を食した】
という記録が発見されました。
ただし、これもいささか大ざっぱな話ですよね。
日本で「ラーメン」といえばざっくりと中国の麺類という話になりますが、中国での「拉麺(ラーメン)」は手で延ばしているという定義が加わります。
生地を包丁で切る場合は「切麺」になるのです。
このへんでややこしくなってきますので、麺の製造過程については問わないこととして、
【日本で食べられている、中華麺を用いた料理=ラーメン】
ということに本稿では統一します。
そして本稿では、室町時代にせよ、水戸光圀にせよ、初めてのラーメン論争に関しては敢えて触れないこととします。
特権階級の一部が物珍しさから食べただけで、食習慣として庶民に定着したわけではないからです。
また「ラーメン」は「中華そば」や「支那そば」といった呼び方もあります。
本稿では特に断りのない限り、「ラーメン」と統一して表記します。
では、その歴史を振り返ってみましょう。
明治の開国と共に普及したラーメン
日本の国民食として定着するラーメンのルーツは、1880年代、明治初期からと見られます。
横浜に広東地方出身の人々が住み着き、外国人相手にラーメンを提供し始めたのです。
当時の顧客は、故郷の味を懐かしむ出稼ぎ労働者や留学生といった、清出身の人々でした。
それが1900年代に入り居留地が廃止になると、それまで敷地内に限られていた中華料理が、だんだんと広がっていきます。
1910年代の明治時代末期には、日本人が経営するレストランでも、ラーメンが提供されるようになりました。
日本人向けにアレンジされ、メンマやチャーシューが載せられたラーメンは腹持ちがGOOD!
特に肉体労働者や学生、兵士といった、がっつり食べたい客にとってはありがたいメニューだったのです。
塩分、油、そして小麦粉の麺。
健康の観点からは問題視されがちな要素ですが、スタミナ付けて頑張ろうぜ、という時にはありがたい。それは明治時代から大正時代の人々にとっても同じだったんですね。
1920年代になると、さらにラーメンは拡大しました。
これにはどうしたって、日本に来ていた中国人が広めたという事実は避けて通れません。
例えば日本三大ラーメンのひとつ「喜多方ラーメン」は、中国人青年の藩欽星(ばんきんせい)が、屋台を引いて売り始めたことが発祥とされています。
当時の喜多方市には電気工場があり、中国や朝鮮半島出身者が多く働いていました。喜多方ラーメンは彼らの間で食べられていたものが、地元の人々にまで広まったことが由来です。
このあたりが「THE・ラーメンの歴史!」という感じですね。
山奥で交通の便が悪い会津地方の喜多方でも、中国から多くの人が働きに来た証拠に他なりません。
そうです、ラーメンの歴史は、日本の歴史とも連動しているのですね。
関東大震災では、被災地から逃れた経営者が、全国拡大に一役買っています。
しかし、この拡大ブームにも、急激なブレーキがかけられてしまいます。
1937年(昭和12年)から始まる戦争により、物資が不足。
日本という国そのものが崩壊の危機に瀕し、日本の食文化も大打撃を受けたのです。
多くのラーメン店が閉店を余儀なくされました。
闇市とアメリカの小麦粉政策
日清食品を創業し、カップヌードルの販売を始めた安藤百福が、ラーメンの可能性に気づいたのは闇市がキッカケでした。
なぜ行列になるほどの人気となったのか?
1945年(昭和20年)の敗戦後、日本では極度の食料難が続きました。結果、映画『火垂るの墓』の主人公兄妹のように、飢えて亡くなる孤児も大勢いたのは周知の通りです。
そんな中、比較的手に入りやすい穀物が小麦でした。
米軍の小麦粉緊急輸入により、大量に入手できたのです。
アメリカ政府は当初の方針をまげ、日本への食料援助を積極的に行いました。
日本をかつての敵国から、冷戦下でのソ連に対する同盟国に塗り替えることが急務だったのです。そのための食料援助など安いものだったでしょう。
こうして闇市には、アメリカ産の小麦粉が溢れました。
あふれていたのは小麦粉だけではありません。
中国大陸から引き揚げてきた人々は、現地でラーメンや餃子の作り方を習得。
レシピを頼りに、中華料理を作り始めます。
戦後の中華料理の広がりは、こうした引き揚げ者も関係していました。
和食よりもスタミナがつくというイメージは、飢えに苦しみ活力を求める人々にとって魅力的でした。
想像してみてください。
ずっと慢性的に飢えて、サツマイモやその蔓や葉っぱまで食べていた――そんなとき、目の前にラーメンが出てきたとしたら。
あたたかく、芳醇な香りで、湯気がたち……たまりませんよね。
戦前も肉体を使う男性に好まれましたが、戦後もこの状況は変わりません。
やや粗野な食べ物というイメージがありました。
「女性一人でラーメン屋なんて恥ずかしい!」という、今からすればナンセンスな話も、そうした名残だったのでしょう。
闇市のラーメンとは、戦後復興期の日本人にとって、輝かしい思い出の味。
それはアメリカの政策と深く関わりがあり、日本の歴史とも連動していたのでした。
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