大きく分けると、前半は織田氏の内部事情の変化、後半は「稲生の戦い(いのうのたたかい)」と呼ばれる戦のことが書かれています。
まずは前半から見て参りましょう。
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守山城の新城主は異母弟の一人・信時
18話で述べた織田信長の弟・織田秀孝の事故死により、下手人の主人である守山城主・織田信次が今川家に出奔してしまいました。
その後、主のいなくなった守山城は、信次の家老たちが守っていたのですが……。
事故とはいえ肉親をブッコロされてしまった織田信勝(織田信行)や信長としては、そう簡単に許すことはできません。二人は兵を派遣し、守山城は包囲されます。
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怒り心頭だった信勝は、おそらく「信次が戻り次第ブッコロ!!」みたいな勢いだったでしょうね。
信長については、少々判断がつきかねるところ。
というのも、同時に守山城の新しい城主を選んでおり、信次の処分が腹の中で決まっていた故の冷静さ――そう見ることもできるからです。
このとき、信長の家臣である佐久間信盛が、新しい守山城主に推挙したのが織田信時。信長異母弟の一人です。
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年齢順にも妥当だったので、信長はこの意見を容れて、信時を守山城主に据えました。
どうやら、信時から信盛にお願いしていたようなのです。
「守山城主になりたいから、信盛から兄へ口利きをしてくれぬか?」
というのも、信時が守山城に入った後、信盛へ知行百石が与えられているのです。
なんだか賄賂みたいなものですが、この時代「陰謀だとしても、人の命がかかってなければ綺麗なもの」みたいな価値観ですからねぇ。
信長切腹で信行を当主にしようとしている!?
一方その頃、織田氏の領内では、ある噂が立ち始めていました。
「林秀貞・美作兄弟と、柴田勝家の三人が、信長を切腹させて信勝を当主にしようとしている」
勝家は信勝付きの家老ですから、当主をすげ替えたいのは納得できますが、林兄弟はれっきとした信長の家臣です。
つまりこの二人の、信長に対する不満が見てとれますね。
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しかし、そんな中で信長は信時を連れ、弘治二年(1556年)5月26日に、那古屋城の秀貞を訪れています。
秀貞はこの頃、筆頭家老として那古屋城の留守居役を任されていました。
信長が幼少期を過ごした城でもあり、交通の要所である那古屋城を任せたということは、信長から見た秀貞は一応「使える奴」という評価だったのでしょう。
美作は秀貞はこんなやり取りをしたといいます。
「この機会に信長を追い詰め、切腹させよう」
「そうは言っても、三代に渡ってご恩を受けた家の当主なのだ。ここで討ち果たすのは罰当たりになる」
結局、この日信長の身に危険が及ぶことはありませんでした。
林兄弟、突如の挙兵!
その一両日後、突然、林兄弟らが反信長の兵を挙げました。
秀貞が何を考えていたのかよくわかりませんが、それだけ悩んでいたのかもしれませんね。
ほぼ同時期に、守山城でも異変が起きます。
新しく城主になった信時が、まともに働いていた家老の角田新五より、男色相手の坂井孫平次を重用してしまっていたのです。当然、新五からすれば面白くありません。
恨みが募った末、新五は城の修繕工事と偽って、守山城にこっそり兵を引き入れます。そして信時を追い詰めて、切腹させてしまいました。
これはどう考えても、信時が悪い話です。
新五はヤケになったのか、さらに岩崎の丹羽氏勝という人物を味方につけて、守山城に立てこもります。
この氏勝と信長の幼馴染である丹羽長秀は、血縁関係ではありません。近い時代に同じ名字の人がいるとややこしいですね。
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信長はこれを受けて、秀孝の件からずっと放浪していた信次を許し、正式な守山城主に戻しました。
おそらく、他の弟たちはまだ幼すぎて、城主を任せられないと判断したのでしょう。
信長の弟には生年不詳な人も多いのですが、下から二番目の長益(織田有楽斎)が天文十六年(1547年)生まれなので、この時点でも10歳程度です。
信行から長益までの間にも数人の弟がいますが、ほぼ全員10代前半~半ばだったと思われます。
加えて、秀孝が10代半ばでうかつな行動をとって事故死したため、「まだこの年頃では、城主を任せるには早すぎる」と考えたのでしょう。
信次を許す気になったというよりは、他に候補がいないので仕方なく許した……というところでしょうか。
稲生の戦い~先に動いたのは信長だった
さらにこれらの裏で、信長と信行の仲も急速に悪化していました。
信長公記の著者である太田牛一は「林兄弟の画策によって」だと書いていますが、詳細は不明です。
前述のように、噂話のことを書くくらいなら、もうちょっとそれらしい記録を残してほしいなぁ、と(´・ω・`)
そんな感じで、あっちこっちで険悪な火花が勃発!
そして【稲生の戦い】へと続きます。
弘治二年8月22日。
織田信長は先手を打って、於多井川(おたいがわ)を渡った名塚というところに砦を作らせ、佐久間信盛に任せました。
信長の居城・清州城からほど近いところですが、信行の居城・末森城から見れば「清洲から川を越えて攻め込んできた」とも取れる位置です。
となると、信勝サイドとしても、そうそう放置してはおけません。
拠点の位置関係は以下の通り。
西(左)から見て
黄色……清州城(信長)
緑色……那古屋城(林)
赤色……守山城(織田信次と信時)
青色……末森城(織田信勝と柴田勝家)
と続きます。
すると翌23日、勝家が1000、美作が700ほどの兵をそれぞれ率いて、名塚の砦へ迫りました。
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信長も24日、手勢を率いて清州城から出陣。この日の正午頃から戦闘が始まりました。
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