柴田勝家(左)と織田信長の肖像画

柴田勝家(左)と織田信長/wikipediaより引用

織田家 信長公記

稲生の戦いで信長vs信勝と勝家|信長公記第19話

2019/03/14

今回は、今までの話と比べて一節あたりが少々長い部分です。

大きく分けると、前半は織田氏の内部事情の変化、後半は「稲生の戦い(いのうのたたかい)」と呼ばれる戦のことが書かれています。

まずは前半から見て参りましょう。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

守山城の新城主は異母弟の一人・信時

18話で述べた織田信長の弟・織田秀孝の事故死により、下手人の主人である守山城主・織田信次が今川家に出奔してしまいました。

その後、主のいなくなった守山城は、信次の家老たちが守っていたのですが……。

事故とはいえ肉親をブッコロされてしまった織田信勝(織田信行)や信長としては、そう簡単に許すことはできません。

二人は兵を派遣し、守山城は包囲されます。

怒り心頭だった信勝は、おそらく「信次が戻り次第ブッコロ!!」みたいな勢いだったでしょうね。

信長については、少々判断がつきかねるところ。

というのも、同時に守山城の新しい城主を選んでおり、信次の処分が腹の中で決まっていた故の冷静さ――そう見ることもできるからです。

このとき、信長の家臣である佐久間信盛が、新しい守山城主に推挙したのが織田信時。

信長異母弟の一人です。

年齢順にも妥当だったので、信長はこの意見を容れて、信時を守山城主に据えました。

信時から信盛にお願いしていたようなのです。

「守山城主になりたいから、信盛から兄へ口利きをしてくれぬか?」

そして信時が守山城に入った後、信盛へ知行百石が与えられています。

いや、それって賄賂というか、佐久間信盛は、なんだかあまり良い話では目立たないというか……。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用

 


信長切腹で信勝を当主にしようとしている!?

一方その頃、織田氏の領内では、ある噂が立ち始めていました。

「林秀貞・美作兄弟と、柴田勝家の三人が、信長を切腹させて信勝を当主にしようとしている」

勝家は信勝付きの家老ですから、当主をすげ替えたいのは納得できますが、

柴田勝家の肖像画

柴田勝家/wikipediaより引用

林兄弟はれっきとした信長の家臣です。

つまりこの二人の、信長に対する不満が見てとれますね。

第14話【村木砦の戦い】の前にも、この兄弟はサボっていました。

織田信長のイラスト。赤い背景を背に、鋭い眼差しで前を見据える戦国武将の姿を描いた作品で、『信長公記』の主題を象徴するビジュアル。
村木砦の戦い 信長が泣いた|信長公記第14話

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しかし、そんな中で信長は信時を連れ、弘治二年(1556年)5月26日に、那古屋城の秀貞を訪れています。

秀貞はこの頃、筆頭家老として那古屋城の留守居役を任されていました。

信長が幼少期を過ごした城でもあり、交通の要所である那古屋城を任せたということは、信長から見た秀貞は一応「使える奴」という評価だったのでしょう。

美作は、兄の秀貞相手に、こんなやり取りをしたといいます。

「この機会に信長を追い詰め、切腹させよう」

「そうは言っても、三代に渡ってご恩を受けた家の当主なのだ。ここで討ち果たすのは罰当たりになる」

結局、この日信長の身に危険が及ぶことはありませんでした。

 

林兄弟、突如の挙兵!

一両日後、突然、林兄弟らが反信長の兵を挙げました。

秀貞が何を考えていたのかよくわかりませんが、それだけ悩んでいたのかもしれませんね。

ほぼ同時期に、守山城でも異変が起きます。

新しく城主になった信時が、まともに働いていた家老の角田新五より、男色相手の坂井孫平次を重用してしまっていたのです。当然、新五からすれば面白くありません。

恨みが募った末、新五は城の修繕工事と偽って、守山城にこっそり兵を引き入れます。そして信時を追い詰めて、切腹させてしまいました。

これはどう考えても、信時が悪い話です。

新五はヤケになったのか、さらに岩崎の丹羽氏勝という人物を味方につけて、守山城に立てこもります。

この氏勝と信長の幼馴染である丹羽長秀は、血縁関係ではありません。近い時代に同じ名字の人がいるとややこしいですね。

丹羽長秀の肖像画

丹羽長秀/wikipediaより引用

信長はこれを受けて、秀孝の件からずっと放浪していた信次を許し、正式な守山城主に戻しました。

おそらく、他の弟たちはまだ幼すぎて、城主を任せられないと判断したのでしょう。

信長の弟には生年不詳な人も多いのですが、下から二番目の長益(織田有楽斎)が天文十六年(1547年)生まれなので、この時点でも10歳程度です。

信勝から長益までの間にも数人の弟がいますが、ほぼ全員10代前半~半ばだったと思われます。

加えて、秀孝が10代半ばでうかつな行動をとって事故死したため、「まだこの年頃では、城主を任せるには早すぎる」と考えたのでしょう。

信次を許す気になったというよりは、他に候補がいないので仕方なく許した……というところでしょうか。

 

稲生の戦い~先に動いたのは信長だった

さらにこれらの裏で、信長と信勝の仲も急速に悪化していました。

『信長公記』の著者である太田牛一は「林兄弟の画策によって悪化した」と記していますが、詳細は不明です。

そんな感じで、あっちこっちで険悪な火花が勃発!

そして【稲生の戦い】へと続きます。

弘治二年8月22日。

織田信長は先手を打って、於多井川(おたいがわ)を渡った名塚というところに砦を作らせ、佐久間信盛に任せました。

信勝の居城・末森城から見れば「清洲から川を越えて攻め込んできた」とも取れる位置です。

拠点の位置関係は以下の通り。

西(左)から見て

黄色……清州城(信長)

緑色……名塚砦(佐久間信盛)

赤色……守山城(織田信次と信時)

青色……末森城(織田信勝と柴田勝家)

と続きます。

信勝サイドとしても、そうそう放置してはおけません。

すると翌23日、勝家が1000、美作が700ほどの兵をそれぞれ率いて、名塚の砦へ迫りました。

柴田勝家の肖像画

柴田勝家/wikipediaより引用

信長も24日、手勢を率いて清州城から出陣。

この日の正午頃から戦闘が始まりました。

 


森可成が大活躍

まず、柴田勢と信長勢の兵が衝突しました。

序盤は、信長方の多くの兵が討たれ、生き残った者も怖気づいて逃げてきてしまいます。

織田信長のすぐ前まで逃げてきたらしいので、柴田勝家の勇猛さや勢いがうかがえますね。

そこで、信長の側に控えていた者のうち、織田信房(一族ではなく織田姓を貰った家臣)と森可成(よしなり)が打って出て、敵の首を取りました。

森可成の肖像画

森可成/wikipediaより引用

「信長の怒号で兵がひるんだ」とも書かれているので、それも功を奏したのかもしれません。

また、信房がこのとき配下の兵に「首をお取りください」と言われても、「今はその時ではない!」と返し、攻め続けることを命じたとか。

この人は、少なくとも2話で述べた【小豆坂の戦い】あたりから織田弾正忠家に仕えていたので、古強者の経験からそう判断したのでしょう。

左から今川義元・織田信秀・斎藤道三
小豆坂の戦い(安祥合戦)で狙われた信長の兄|信長公記第2話

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信長自身も、自ら兵を率いて攻め手に加わりました。

その中の一人・黒田半平という者が林美作と長時間切り合い、半平は左の手を切り落とされる大怪我をしてしまいます。

しかし美作も息が上がっていました。

お互い一時休戦になっていたところに、信長が駆けつけて自ら美作に挑んだといいます。

これこそが信長の魅力の一つですね。

大将なのに自ら前へ出て戦う――そして自らの手で林美作を討ち取り、首を挙げました。

信長公記には「無念を晴らした」とあるので、信長からすると秀貞より美作のほうが問題だったのかもしれません。

また、このとき、口中杉若(ぐちゅう すぎわか)という身分の低い者に功績があったので、信長は彼を取り立てて、杉左衛門尉と名乗らせたとか。

信賞必罰を迅速に行うのも、信長の長所の一つですね。

 

翌日清洲で首実検

こうして【稲生の戦い】は信長方の勝利で終わりました。

落ち着いた頃を見計らって、各自、馬に乗り、首を取りに向かったようです。

この日、信長は清州城に帰り、首実検は翌日を行いました。

首実検とは、字面の通り、【首を実際に見て検(あらた)め、将兵への褒美を決める作業】です。

特に稲生の戦いのような身内の戦の場合、どの首が誰のものなのかすぐわかるので、功績が明確にわかります。

これが敵国同士の戦いだと「その辺の一般人を適当に殺して首の数を水増しする」ような不届き者がいたとか……。

まぁ、一般人の中にも落ち武者狩りをする者がいましたので、どっちが悪いと一概には言い切れません。強いて言うなら世情が悪い。

このとき信長軍が挙げた首は、なんと450以上もあったといいます。

柴田勢と林勢を合わせて1700前後の兵数でしたから、少なくとも1/4は信長軍に討たれたことになりますね。

凄まじい戦果です。

ただし身内を削るために自殺行為でもありますが……。

 


実母の頼みとあっては断るワケにも参らぬ

完膚なきまでに叩かれた織田信勝、そして林秀貞らは、城に籠もるほかありませんでした。

この状況で籠城したところで、助けに来る味方はいない時点で意味はありません。

しかし、八方塞がりだったのでしょう。

信長は念押しのため、これらの城近くまで町を焼き払っています。

ここで、末森城に住んでいた信長と信勝の実母である土田御前(どたごぜん)が登場、両者の仲裁に動きます。

土田御前
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清州城から信長の家臣を二人呼び寄せて、彼らを土田御前の使者とし、信勝方から信長へ詫びを入れたいと申し入れたのです。

さすがの信長も母の意見を無下にはできず、彼女の提案を受け入れました。

それに対し、信勝、勝家と、もう一人、津々木蔵人(つづき くらんど)という信勝の家臣が、墨染めの衣を着て清州城を訪れ、信長に直接赦免の礼を述べています。

 

秀貞も赦免

暗殺計画については林秀貞本人から「実は、5月26日に殿を殺すつもりでした」と白状してきたため、信長はその時の状況を思い出しました。

『こやつ、やろうと思えば俺をあの場で殺せたのに、そうしなかったな。ならば、俺を殺したいほど憎んでいるというわけではないのだろう』

そう判断し、秀貞も赦免しています。

信長って実は優しい(甘い)よね、と判断される一つのエピソードでありますね。

信勝派との戦いはいったん落ち着いたかに見えました。

「見えた」だけで、そうは行かなかったのですがね。それはまた後日……。

次の第20話は👉️あまが池の大蛇と佐々成政|信長公記第20話

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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