元々は僧侶だった足利義昭が、織田信長を頼り上洛。
岐阜から京都まで、将軍になるため歩んだ期間は、永禄十一年(1568年)9月7日から10月22日にかけてのことでした。
その間、いったい何が起きたのか?
『信長公記』にはどう記されているのか?
信長と義昭による上洛、46日間の一部始終を日付に沿って振り返りましょう。
9月7日 徳川からも参戦
まずは9月7日。
織田信長が足利義昭にあいさつし、先行する形で出陣しました。
尾張・美濃・北伊勢の兵の他に、同盟を組んでいた徳川からは、徳川家康の名代として松平信一という人が兵を率いて参加しています。

松平信一/wikipediaより引用
この人は家康の祖父・松平清康のいとこですが、天文八年(1539年)生まれのため、信長と家康のちょうど中間くらいの年代です。
・織田信長(1534年生まれ)
・徳川家康(1543年生まれ)
総勢6万という、これまでと比べてかなりの規模の軍。
この日は平尾村(岐阜県不破郡)まで進んだようです。
9月8日 近江の高宮まで進軍
近江の高宮(滋賀県彦根市)に到着。
ここで二日間、兵と馬に休息を取らせました。
現代の道路で岐阜~不破郡がおおよそ56kmほどで、不破郡~彦根市が30kmほどなので、当時の交通事情を考えると、2日間で実質100kmぐらいは行軍したかもしれません。
かなりの距離で、ちょっと怪しいですね。
馬だけでしたら問題ないですが。
二日間の休みを取っておりますので、絶対にこなせない距離ではないと思いますが……。
9月11日 支城は無視せよ、観音寺城を目指せ
高宮から琵琶湖の外周を南西へ進み、愛知川近辺で野営を張りました。
信長は自ら馬で周囲を駆け回り、状況を確認していたようです。
毎度のことながら、フットワークの軽さがよくわかりますね。
信長最大の武器と言ってもいいでしょう。
当時、近江には守護である六角氏の城がたくさんあり、上洛戦は難航すると思われていました。
常人ならば、一つずつ城を攻略していこうとするでしょう。
しかし、ただでさえ長い行軍をしてきた織田方と、地元である六角方とでは、長期戦になった場合前者が不利です。
近江全体が一つの城と考えれば、広大な城攻めをするような状態になりますからね。
そこは信長、目の付け所が違います。
六角氏に属する他の城は放置し、本拠の観音寺城とその支城・箕作(山)城だけを攻めることにしたのです。
だからこその行軍だったのでしょう。
上洛戦の数年前から、六角氏はお家騒動で揺れており、今まで同盟関係にあった浅井氏も織田方につくという有様でした。
そのため、信長はこう考えたようです。
「城の数が多いだけで、六角方は一枚岩ではない。大将さえ落としてしまえば、後はこちらになびくだろう」
9月12日 箕作城攻略
この日の午後四時から、以下の面々に箕作城を攻めさせました。
・佐久間信盛(信長の筆頭家老)
・木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)
・丹羽長秀(「米五郎左」こと信長の腹心)
・浅井正澄
正澄だけ素性がよくわかりません。
後に【姉川の戦い】などでまた出てきますので、浅井軍からの参加だと思われます。
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姉川の戦い|織田徳川と浅井朝倉が激突!互いに引けなかった合戦の勝敗は?
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箕作城はこの日夜に陥落し、信長もここへ来て一晩休息しました。
この日の記述には、戦の経過のほかに、ちょっとした逸話が添えられています。
箕作城攻めは、信長が美濃を手中に収めてから最初の本格的な戦でした。
そのため、美濃の将兵、特に”美濃三人衆”と呼ばれていた
などは、次のように心配していたそうです。
「信長公への忠誠を試すために、この戦では先鋒として使われるであろう」
こういうやり方はよくある話ですし、わざと激戦になりそうなところへ配置されることも少なくありません。
ところが、信長は違いました。
この日は美濃衆ではなく、自分の御馬廻衆を使ったのです。
心配していた人々は首を傾げたようで、信長の真意はわかりません。
想像するに、美濃衆をイヤイヤ働かせて上洛中の離反を防いだのでしょう。
ちょっとでも信長方が隙を見せれば、六角方が勢いづいてしまいますし、徳川軍や浅井軍への示しがつきません。
下手にプレッシャーを与えて足並みを乱すより、統制を意図したのでしょうね。
9月13日~9月27日 本拠地・観音寺城陥落
9月13日から27日までは一日ごとの記録が少ないため、まとめてご報告いたします。
9月13日
まず13日、六角氏の本拠・観音寺山に攻め上りました。
が、既に城主の六角親子三人は逃げた後でした。
残党も降参したため、信長は人質を取って監視をさせるに留め、先へ進みます。
近江の主である六角氏が信長に事実上敗れたため、他の近江の城主たちも次々に降伏しました。
9月14日
近江国内を攻略し終わったため、信長は義昭の迎えとして、不破光治を派遣しました。
義昭は21日に柏原の上菩提院(米原市)、22日に桑実寺(蒲生郡)に到着します。
9月24日
この日は、信長が守山へ進軍した、とだけ記述。
箕作城攻めでかなり損耗していたようなので、この間に兵馬の休息もさせていたと思われます。
9月25日
「琵琶湖を船で渡ろうとしたが、舟の都合がつかず駐留した」とあります。
なんだか間の抜けた話にも思えますが、なんせ6万という大所帯なので、片っ端から舟を集めなければならなかったのでしょう。
9月26日
琵琶湖を渡り、三井寺極楽院(園城寺/大津市)に布陣しました。
信長の本隊以外は、付近の馬場・松本に陣を張ったようです。
9月27日
義昭が琵琶湖を渡り、三井寺極楽院に到着したことのみが書かれています。
義昭は信長に同行していたわけではなく、常に後を追いかけるような形で上洛していたんですね。
まぁ、そっちの方が安全ですし。
9月28日 京都入りして三好攻め
信長が東福寺(京都市東山区)に陣を移し、義昭も京都の清水寺へ入りました。
この時点で上洛そのものは終わったとも取れますが、三好方の驚異を払わない限り、まだ安心はできません。
そこで、三好三人衆の一人・石成友通がいた青龍寺(勝竜寺)城を攻めることにし、以下の面々に先鋒を命じました。
・柴田勝家
・蜂屋頼隆
・森可成
・坂井政尚
坂井政尚は元々美濃斎藤氏に仕えていた人で、信長が美濃を攻略した後、織田氏へ仕えるようになっていました。
彼の名前がはっきり出てくるのはここが初めてであること、箕作山城攻めで美濃衆が使われなかったことを併せて考えると、政尚にとってはやりがいとプレッシャーのある戦だったと思われます。
他の三人も政尚の立場を理解してか、うまく協力して攻撃。
敵の首を50以上も取る大勝を収めました。
首は信長の下へ送られ、実検されたようです。
特記がないので、大将首といえるものはなかったのかもしれません。
9月29日~10月22日
9月29日
信長自身で青龍寺城へ出馬し、寺戸・寂照院に布陣しました。
が、ここで石成友通があっさり降伏。
戦にならず終わっています。
9月30日
現在の大阪近辺にあった三好方の城を攻略するため、進軍を続けました。
信長は山崎に着陣、先鋒は天神の馬場に布陣したようです。
芥川山城(大阪府高槻市)に細川京兆家当主である細川昭元と、三好三人衆の一人・三好長逸が立てこもっていましたが、この日の夜に逃げ出しています。
三好氏の家臣だった篠原長房の居城である越水城(兵庫県西宮市)。
彼が持っていた滝山城(兵庫県神戸市)。
いずれも戦になる前に敵方が逃亡し、マトモな戦いにはなりませんでした。
信長は義昭のお供をして、一度芥川山城へ移ったようです。
10月2日
池田城(大阪府池田市)で抵抗を続けていた池田勝正を攻めました。
最後まで交戦していただけあり、ここはかなりの激戦。
敵味方ともに多くの死傷者が出たようです。

絵・小久ヒロ
一例として『信長公記』には以下のような戦績が挙げられています。
・水野信元の家来である梶川高秀が、腰骨を突かれ、後退する途中で討ち死に
・信長の御馬廻衆である魚住隼人が負傷
信長は池田城と城下町に火を放つと、この戦を終わりとしました。池田勝正は降参し、人質を出したため許されています。
そして、どこから噂を聞きつけたものか。
この時期は信長の下へ献上品を持って挨拶に来る人々が多くいました。
・松永久秀から九十九髪茄子(茶入)
・今井宗久から松島(茶壺)と紹鴎茄子(茶入)
送り主がわかるのはこの二件だけですが、信長が芥川に滞在していた14日の間、宿所はこういった人々でごった返していた……と書かれています。
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中には、「その昔、源義経が一ノ谷の戦いで身につけていたという鎧」を持ってきた者もいたとか。
しかし、その人の名前が書かれていないので、著者の太田牛一は眉唾ものだと思っていたようです。
どこぞの鑑定団の出張版みたいな感じだったんでしょうかね。
10月14日
義昭が京都六条の本圀寺に移り、信長は清水寺へ入りました。
大所帯なので、軍規の乱れが起きないよう、治安維持に気を配っていたようです。
近くは応仁の乱に続く混乱、古くは木曽義仲など、京の人々は武士そのものに悪いイメージが強かったため、厳しく取り締まったのでしょう。
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ここから10日ほどで、周辺地域の城主たちも信長に降参し、畿内は安定しました。
信長は細川昭元の屋敷を義昭の御殿とし、太刀と馬を再度献上したとあります。
義昭は返礼として、信長に食事を振る舞ったり、自ら酌をしたり、剣を送ったりしたとか。
この時点では、少なくとも表向きは良好な関係だったことがわかりますね。
10月22日
義昭が朝廷へ参内し、正式に征夷大将軍を任命されました。
室町幕府15代将軍の誕生です。

足利義昭/wikipediaより引用
10月22日とは、出陣から約一ヶ月半であり、義昭が信長のもとへやってきてから、わずか三ヶ月というスピードでした。
やっぱり動きが早いですよね!
現代のビジネスマンにしても成功しそうな雰囲気です。
こうして義昭の本願は達成されましたが、これで全てがうまくいくとは限らないのが、戦国の世の厳しさというところ。
戦も政争もガンガン続きます。
なお、信長の上洛の詳細については別記事「なぜ信長の上洛戦は京都だけで終わらなかったのか|六角氏・三好勢を倒した全戦績」をご覧ください。
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参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(全15巻17冊, 吉川弘文館, 1979年3月1日〜1997年4月1日, ISBN-13: 978-4642091244)
書誌・デジタル版案内: JapanKnowledge Lib(吉川弘文館『国史大辞典』コンテンツ案内) - 太田牛一(著)・中川太古(訳)『現代語訳 信長公記(新人物文庫 お-11-1)』(KADOKAWA, 2013年10月9日, ISBN-13: 978-4046000019)
出版社: KADOKAWA公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 文庫版商品ページ - 日本史史料研究会編『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像(歴史新書y 049)』(洋泉社, 2014年10月, ISBN-13: 978-4800305084)
書誌: 版元ドットコム(洋泉社・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長合戦全録――桶狭間から本能寺まで(中公新書 1625)』(中央公論新社, 2002年1月25日, ISBN-13: 978-4121016256)
出版社: 中央公論新社公式サイト(中公新書・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『信長と消えた家臣たち――失脚・粛清・謀反(中公新書 1907)』(中央公論新社, 2007年7月25日, ISBN-13: 978-4121019073)
出版社: 中央公論新社・中公eブックス(作品紹介) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長家臣人名辞典(第2版)』(吉川弘文館, 2010年11月, ISBN-13: 978-4642014571)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ - 峰岸純夫・片桐昭彦(編)『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館, 2005年3月1日, ISBN-13: 978-4642013437)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ








