足利義昭と織田信長の肖像画

良好な関係だった足利義昭と織田信長/wikipediaより引用

足利家 信長公記

信長と義昭の上洛 46日間の一部始終|信長公記第52話

2024/09/25

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9月29日~10月22日

9月29日

信長自身で青龍寺城へ出馬し、寺戸・寂照院に布陣しました。

が、ここで石成友通があっさり降伏。

戦にならず終わっています。

9月30日

現在の大阪近辺にあった三好方の城を攻略するため、進軍を続けました。

信長は山崎に着陣、先鋒は天神の馬場に布陣したようです。

芥川山城(大阪府高槻市)に細川京兆家当主である細川昭元と、三好三人衆の一人・三好長逸が立てこもっていましたが、この日の夜に逃げ出しています。

三好氏の家臣だった篠原長房の居城である越水城(兵庫県西宮市)。

彼が持っていた滝山城(兵庫県神戸市)。

いずれも戦になる前に敵方が逃亡し、マトモな戦いにはなりませんでした。

信長は義昭のお供をして、一度芥川山城へ移ったようです。

10月2日

池田城(大阪府池田市)で抵抗を続けていた池田勝正を攻めました。

最後まで交戦していただけあり、ここはかなりの激戦。

敵味方ともに多くの死傷者が出たようです。

絵・小久ヒロ

一例として『信長公記』には以下のような戦績が挙げられています。

・水野信元の家来である梶川高秀が、腰骨を突かれ、後退する途中で討ち死に

・信長の御馬廻衆である魚住隼人が負傷

信長は池田城と城下町に火を放つと、この戦を終わりとしました。池田勝正は降参し、人質を出したため許されています。

そして、どこから噂を聞きつけたものか。

この時期は信長の下へ献上品を持って挨拶に来る人々が多くいました。

・松永久秀から九十九髪茄子(茶入)

・今井宗久から松島(茶壺)と紹鴎茄子(茶入)

送り主がわかるのはこの二件だけですが、信長が芥川に滞在していた14日の間、宿所はこういった人々でごった返していた……と書かれています。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)
松永久秀の生涯|三好や信長の下で出世を果たした智将は梟雄にあらず

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中には、「その昔、源義経が一ノ谷の戦いで身につけていたという鎧」を持ってきた者もいたとか。

しかし、その人の名前が書かれていないので、著者の太田牛一は眉唾ものだと思っていたようです。

どこぞの鑑定団の出張版みたいな感じだったんでしょうかね。

 


10月14日

義昭が京都六条の本圀寺に移り、信長は清水寺へ入りました。

大所帯なので、軍規の乱れが起きないよう、治安維持に気を配っていたようです。

近くは応仁の乱に続く混乱、古くは木曽義仲など、京の人々は武士そのものに悪いイメージが強かったため、厳しく取り締まったのでしょう。

応仁の乱を描いた『真如堂縁起絵巻』
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源義仲・木曽義仲・木曾義仲
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ここから10日ほどで、周辺地域の城主たちも信長に降参し、畿内は安定しました。

信長は細川昭元の屋敷を義昭の御殿とし、太刀と馬を再度献上したとあります。

義昭は返礼として、信長に食事を振る舞ったり、自ら酌をしたり、剣を送ったりしたとか。

この時点では、少なくとも表向きは良好な関係だったことがわかりますね。

 

10月22日

義昭が朝廷へ参内し、正式に征夷大将軍を任命されました。

室町幕府15代将軍の誕生です。

足利義昭/wikipediaより引用

10月22日とは、出陣から約一ヶ月半であり、義昭が信長のもとへやってきてから、わずか三ヶ月というスピードでした。

やっぱり動きが早いですよね!

現代のビジネスマンにしても成功しそうな雰囲気です。

こうして義昭の本願は達成されましたが、これで全てがうまくいくとは限らないのが、戦国の世の厳しさというところ。

戦も政争もガンガン続きます。

📚 『信長公記』連載まとめ

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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