信長と義昭の上洛

良好な関係だった足利義昭と織田信長/wikipediaより引用

信長公記 足利家

信長は京都までどんな敵と戦ったのか? 義昭を将軍就任させるための上洛戦

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
信長と義昭の上洛
をクリックお願いします。

 

お好きな項目に飛べる目次


9月29日~10月2日

9月29日

信長自身で青龍寺城へ出馬し、寺戸・寂照院に布陣しました。

が、ここで石成友通があっさり降伏。

戦にならず終わっています。

9月30日

現在の大阪近辺にあった三好方の城を攻略するため、進軍を続けました。

信長は山崎に着陣、先鋒は天神の馬場に布陣したようです。

芥川山城(大阪府高槻市)に細川京兆家当主である細川昭元と、三好三人衆の一人・三好長逸が立てこもっていましたが、この日の夜に逃げ出しています。

三好氏の家臣だった篠原長房の居城である越水城(兵庫県西宮市)。

彼が持っていた滝山城(兵庫県神戸市)。

いずれも戦になる前に敵方が逃亡し、マトモな戦いにはなりませんでした。

信長は義昭のお供をして、一度芥川山城へ移ったようです。

10月2日

池田城(大阪府池田市)で抵抗を続けていた池田勝正を攻めました。

最後まで交戦していただけあり、ここはかなりの激戦。

敵味方ともに多くの死傷者が出たようです。

絵・小久ヒロ

一例として『信長公記』には以下のような戦績が挙げられています。

水野信元の家来である梶川高秀が、腰骨を突かれ、後退する途中で討ち死に

・信長の御馬廻衆である魚住隼人が負傷

信長は池田城と城下町に火を放つと、この戦を終わりとしました。池田勝正は降参し、人質を出したため許されています。

そして、どこから噂を聞きつけたものか。

この時期は信長の下へ献上品を持って挨拶に来る人々が多くいました。

松永久秀から九十九髪茄子(茶入)

今井宗久から松島(茶壺)と紹鴎茄子(茶入)

送り主がわかるのはこの二件だけですが、信長が芥川に滞在していた14日の間、宿所はこういった人々でごった返していた……と書かれています。

信長を2度も裏切った松永久秀は梟雄というより智将である~爆死もしていない!

続きを見る

中には、「その昔、源義経一ノ谷の戦いで身につけていたという鎧」を持ってきた者もいたとか。

しかし、その人の名前が書かれていないので、著者の太田牛一は眉唾ものだと思っていたようです。

どこぞの鑑定団の出張版みたいな感じだったんでしょうかね。

 


10月14日

義昭が京都六条の本圀寺に移り、信長は清水寺へ入りました。

大所帯なので、軍規の乱れが起きないよう、治安維持に気を配っていたようです。

近くは応仁の乱に続く混乱、古くは木曽義仲など、京の人々は武士そのものに悪いイメージが強かったため、厳しく取り締まったのでしょう。

応仁の乱
応仁の乱って一体何なんだ?戦国時代の幕開け乱戦はどうやって全国へ拡散したか

続きを見る

源義仲・木曽義仲・木曾義仲
なぜ木曽義仲は平家討伐に活躍したのに失脚へ追い込まれたのか?

続きを見る

ここから10日ほどで、周辺地域の城主たちも信長に降参し、畿内は安定しました。

信長は細川昭元の屋敷を義昭の御殿とし、太刀と馬を再度献上したとあります。

義昭は返礼として、信長に食事を振る舞ったり、自ら酌をしたり、剣を送ったりしたとか。

この時点では、少なくとも表向きは良好な関係だったことがわかりますね。

 


10月22日

義昭が朝廷へ参内し、正式に征夷大将軍を任命されました。

室町幕府15代将軍の誕生です。

足利義昭/wikipediaより引用

10月22日とは、出陣から約一ヶ月半であり、義昭が信長のもとへやってきてから、わずか三ヶ月というスピードでした。

やっぱり動きが早いですよね!

現代のビジネスマンにしても成功しそうな雰囲気です。

こうして義昭の本願は達成されましたが、これで全てがうまくいくとは限らないのが、戦国の世の厳しさというところ。

戦も政争もガンガン続きます。

※本記事は連載『戦国初心者にも超わかる信長公記』第52話となります


あわせて読みたい関連記事

中国大返しは可能か?秀吉と官兵衛による10日間230kmの強行軍を考察

続きを見る

織田信長
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る

続きを見る

足利義昭
なぜ足利義昭は信長と共に上洛しながら一人京を追い出されたのか 流浪の生涯を辿る

続きを見る

姉川の戦い
織田徳川vs浅井朝倉「姉川の戦い」で一体何が変わったのか?合戦前後も併せて考察

続きを見る

稲葉一鉄(稲葉良通)
信長に寝返った美濃三人衆「稲葉一鉄」は織田家でどんな働きをしたか 74年の生涯

続きを見る

安藤守就
西美濃三人衆・安藤守就は半兵衛の舅~信長に従いながら迎えた不憫な最期とは

続きを見る

柴田勝家
柴田勝家はなぜ秀吉に敗れたのか? 織田家を支えた宿老62年の生涯まとめ

続きを見る

信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

TOPページへ


 



-信長公記, 足利家

×