絵・富永商太

織田家 信長公記

信長、激怒! 佐久間が発した余計な一言とは? 超わかる信長公記97話

1570年以来、数年に渡って織田信長を悩ませてきた、浅井・朝倉両氏。

姉川の戦い】や【志賀の陣】【宇佐山城の戦い】など、決定的な勝敗のつかない合戦が続いてきたそんな最中、ジリジリと追い詰められていた浅井に激震が走りました。

重臣・阿閉貞征が織田家に寝返ったのです。

阿閉の本拠地は小谷城のスグそばにある山本山城というのは、前96話で報告した通り。

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※黄色=岐阜城、赤色=小谷城、紫色=山本山城

この一報を得てすぐさま織田軍が現地へ駆けつけ、陣を構えると、程なくしてピンチを聞きつけた朝倉の援軍もやってきました。

もしも浅井が陥落したら次はいよいよ朝倉もタダでは済まない。
一方の織田軍も、浅井朝倉両軍が連携を図って挟撃でもされたらピンチに陥る危険性がある――そんな場面で信長は如何なる対応をしたのか。

 


なぜ信長は自ら敵陣へ突っ込んでいけるのか?

天正元年(1573年)8月12日。
前回(96話)で浅井方を裏切って信長方についた浅見対馬は、自らの焼尾砦に織田軍を引き入れました。

この夜は強い雨が降っていたため、信長はこれを利用して、浅井・朝倉方の意表を突く作戦を採ります。
夜の闇と雨音を隠れ蓑にして攻め込むのですね。

しかも信長自ら1,000人ほどの兵を率いて先駆けを務め、大嶽砦(おおずくとりで)へ攻め上りました。朝倉方の兵がここに立てこもっていたのです。

しかし、ちょっと不思議に思いませんか?

今回のように、信長が自ら攻撃に出向くのは一度や二度ではありません。
総大将がそんなマネして万が一崩れたらどうするんだ――という疑問が少なからずあると思います。

実は、こうした戦闘ができるのも、尾張の小勢力時代から非常に優秀な馬廻衆を従えていたからでした。

その数、桶狭間の戦い時点で800~1,200と推定され、今川義元の首を取るときも大いに力を発揮したと考えられます。
信長の馬廻衆は、武家の二男・三男などで構成されていた、普段から訓練されていた戦闘のプロですので、半農の雑兵などでは相手になりません。

一概には計算できませんが、1,000人の精鋭たちは、通常の部隊に換算して3,000あるいは4,000ぐらいの戦闘力とも見てとれましょう。

そんな父の攻撃を、嫡男・織田信忠は虎御前山で待つこととなります。

「父の采配を見ていろ」とか「俺に何かあったら、お前が即座に指揮を執れ」という意味もあったかもしれません。
信忠はこの頃、おおよそ16~18歳。

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上記の記事のように初陣こそ済ませておりましたが、ここまで緊迫する合戦はこれ以上ない実地体験だったはずです。

 


戦わずに敵の戦力・士気を削げる

信長の引き連れた織田軍が山上へ来てみると、そこにいた兵は500人ほどでした。

雨の中、かつ夜間に襲撃されたとなれば、たとえ敵襲に備えていたとしてもパニックを起こすことがあります。

そうなると、敵の数が何倍にも見えるもの。
500程の兵であれば、信長が攻めきることも可能だったはずですが、ここで作戦を少し変えます。

信長は彼らをあえて生かし、朝倉本陣まで逃がすことで、総大将・朝倉義景へ精神攻撃をしかけることにしました。

なぜ、そんなことをしたのか?
あえて彼らを生かすことで「戦わずに敵の戦力・士気を削げる」可能性を狙ったのです。

多くの兵たちが命からがら必死の形相で自陣へ逃げ込んできたとなれば、敵の織田軍が凄まじい兵数あるいは勢いで攻め込んできたと、勝手に恐怖に陥ってくれる――それを狙ったのです。

そんなことがうまくいくのか?
単純に敵兵が増えるだけじゃないか?

確かに、これが日頃から忠誠心や結束力の強い軍であれば、「敵襲か! ならば引き返して反撃するぞ!」とでもなりかねませんが、普段から日和ってばかりの朝倉軍にそんな覇気はないと踏んだのでししょう。

 


「朝倉勢の撤退を逃さぬよう、目を光らせよ!」

信長は、あえて朝倉兵を逃した後、大嶽に不破光治ら数名の武将を残し、自らは丁野山(ようのやま)へ向かいました。
浅井氏の本拠・小谷城のすぐ近くです。

丁野山では、朝倉方についた平泉寺(福井県勝山市)の僧侶が守備についていたようですが、さほど時間を置かずに降参・退去しました。
僧侶とはいえ、わざわざ越前から来た者があっさり退去してしまうとは、朝倉義景を見限ったも同然でしょう。

そして信長は確信に近い予測をします。

「朝倉軍は、今夜中に撤退するだろう」

細かい時刻については信長公記に書かれていないので、推測になりますが……おそらく、このとき8月13日の朝頃でしょう。

となると、次に重要になってくるのは
【いつ追撃を仕掛けるか】
というところです。

早すぎればその場で乱戦になりますし、遅すぎれば取り逃がしてしまいます。
そしてどちらの場合も、もしも浅井方が城から出てきたら、挟み撃ちに遭ってしまうのは織田軍です。

タイミングを誤るわけにはいかない。

信長は、佐久間信盛柴田勝家の両家老、そして滝川一益蜂屋頼隆、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、丹羽長秀など、織田家の家臣代表というようなメンバーに厳命します。

「朝倉勢の撤退を逃さぬよう、目を光らせよ!」

絵・富永商太

 

失態を謝罪するどころか逆ギレ的な?

信長の言葉に対し、優秀な家臣団たちはどう思ったか?

いくら神がかった眼力を持つ信長でも、援軍に来たばかりの朝倉軍がここで引き返すわけがない。
もしも浅井が滅びたら次は自分たちの番ではないか。

そんな風に考えたのか、あるいは夜戦の疲れでも出たのか。

朝倉軍は撤退――。
そして全ての織田家武将たちが、その撤退開始を見逃してしまうのです。

最も早く気付いたのは信長自身でした。
危険を顧みず、再び先駆けしたのは織田信長。8月13日の夜に馬廻衆を動かして走り出し、家臣たちがそれを追いかけるという構図になるのでした。

諸将は地蔵山(滋賀県伊香郡木之本町)のあたりでようやく追いつくという状態。
信長は激怒して言います。

「何度も命じていたのに、好機を逃すとはけしからん!!」

ほとんどの武将はその場で陳謝するしかありません。

しかし、ここで佐久間信盛がとんでもない一言を発するのです。

「そうは言っても、我々のような家臣はめったに得られないでしょう」

失態を棚に上げるばかりか、自分たちの存在価値を認めろ、とでも言いたいような口答え。
案の定、信長は不機嫌になった――と信長公記には書かれています。

一説には、これが後年の信盛追放に繋がったともいわれています。

さすがに、この一言だけが追放の原因ということはないでしょうが、もしかしたら信盛は日頃から「一言多いタイプ」だったのかもしれませんね。

一度や二度は許せても、日常的に口答えされれば、その人自体が嫌いになってしまうでしょうし、ともすれば戦意にも影響してしまいそうです。

その件も後々、信長公記の中で出てくるので改めてご紹介します。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link


 



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