千早城の戦い

千早城内で藁人形を作っている様子の描かれた『大楠公一代絵巻』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

千早城の戦いで幕府軍に快勝した正成!その鮮やか過ぎる戦術とは?

古今東西、著名な武将には、何かしら後世に知られた合戦がありますよね。

源義経であれば一ノ谷(奇襲)や壇ノ浦(八艘飛び)。

織田信長なら桶狭間の戦い長篠の戦い

徳川家康だったら三方ヶ原の戦い関ヶ原の戦いあたりでしょうか。

では楠木正成の場合は?

元弘三年(1333年)2月26 or 27日に始まった【千早城の戦い】を挙げたくなります。

残念ながら歴史ファン以外での知名度は低いですが、弓馬を生業とする幕府サイドの武士たちが、寡兵の楠木軍に“石(大石)”で数多く殺されたり重傷を負わされたり、非常に興味深い展開となっています。

早い話、カッコいい合戦では無いんですね。

「よのつねならぬ合戦の体」と記されているように、策士・楠木正成の奇策で幕府軍がとにかく振り回される――。

早速、確認して参りましょう。

 


赤坂城と千早城

千早城は、山城です。

場所は大阪(現在の南河内郡)。城の麓から同城に至るまでの間には、赤坂城という別の城がありました。

赤坂城はさらに上と下の二つに分かれており、山全体で捉えると、正成の城が三つあったことになります。

この時代まだ天守閣はありませんので、イメージ的には砦のほうが近いですけどね。

河内千破城図(湊川神社蔵)/wikipediaより引用

最初は下赤坂城で戦が始まりました。

正成一同はここでも約一月ほど戦いましたが、兵糧攻めにあったため持ちこたえることはできないと判断します。

しかしノコノコ出て行ったのでは首を刎ねられておしまいです。

そこで「楠木家は一家揃って自害した」と見せかけるために一計を案じました。

 


敵兵の遺体20~30と共に城を焼き

その方法は何か?

「立っている者は親でも使え」ならぬ「死んでいる者は敵でも使え」とばかりに、小競り合いで死んだ敵兵の遺体を20~30ほど集め、赤坂城ごと火にかけたのです。

当然、遺体は真っ黒焦げ。

後で城の中を検分した幕府軍は

「正成とその一族が自害し、火を放ったに違いない」

と一人合点して引き上げます。

しかし、翌年、正成は見事に復活(?)し、幕府軍の度肝を抜きます。

そして下赤坂城を奪い返しました。

以前の戦いで、ここは持ちこたえられないということはわかっていましたから、背後の千早城に移って再度幕府軍と戦う事にしたのです。

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