古今東西、著名な武将には、何かしら後世に知られた合戦がありますよね。
源義経であれば一ノ谷(奇襲)や壇ノ浦(八艘飛び)。
徳川家康だったら三方ヶ原の戦いと関ヶ原の戦いあたりでしょうか。
では楠木正成の場合は?
元弘三年(1333年)2月26 or 27日に始まった【千早城の戦い】を挙げたくなります。
残念ながら歴史ファン以外での知名度は低いですが、弓馬を生業とする幕府サイドの武士たちが、寡兵の楠木軍に“石(大石)”で数多く殺されたり重傷を負わされたり、非常に興味深い展開となっています。
早い話、カッコいい合戦では無いんですね。
「よのつねならぬ合戦の体」と記されているように、策士・楠木正成の奇策で幕府軍がとにかく振り回される――。
早速、確認して参りましょう。
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赤坂城と千早城
千早城は、山城です。
場所は大阪(現在の南河内郡)。城の麓から同城に至るまでの間には、赤坂城という別の城がありました。
赤坂城はさらに上と下の二つに分かれており、山全体で捉えると、正成の城が三つあったことになります。
この時代まだ天守閣はありませんので、イメージ的には砦のほうが近いですけどね。
最初は下赤坂城で戦が始まりました。
正成一同はここでも約一月ほど戦いましたが、兵糧攻めにあったため持ちこたえることはできないと判断します。
しかしノコノコ出て行ったのでは首を刎ねられておしまいです。
そこで「楠木家は一家揃って自害した」と見せかけるために一計を案じました。
敵兵の遺体20~30と共に城を焼き
その方法は何か?
「立っている者は親でも使え」ならぬ「死んでいる者は敵でも使え」とばかりに、小競り合いで死んだ敵兵の遺体を20~30ほど集め、赤坂城ごと火にかけたのです。
当然、遺体は真っ黒焦げ。
後で城の中を検分した幕府軍は
「正成とその一族が自害し、火を放ったに違いない」
と一人合点して引き上げます。
しかし、翌年、正成は見事に復活(?)し、幕府軍の度肝を抜きます。
そして下赤坂城を奪い返しました。
以前の戦いで、ここは持ちこたえられないということはわかっていましたから、背後の千早城に移って再度幕府軍と戦う事にしたのです。
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