伊勢貞興

伊勢貞興/wikipediaより引用

明智家

光秀に重宝された伊勢貞興~なぜエリート幕臣出身の武将が明智家に従軍したのか

伊勢貞興(いせ さだおき)いう戦国武将をご存知でしょうか?

戦国武将というより室町幕府のエリート幕臣であり、知名度は低いため、多くの方が『誰それ?』というリアクションになってしまうかもしれません。

ところがこの伊勢貞興も、当時、間違いなく時代を動かした一人と言えます。

明智光秀のもとで働き、天正10年(1582年)には、あの【本能寺の変】にも参加。

秀吉とぶつかった【山崎の戦い】でも、明智軍の一部隊を担い、結果、光秀と共に滅びてしまいました。

1582年7月2日(天正10年6月13日)はその命日とされます。

残念ながら大河ドラマ『麒麟がくる』では注目されませんでしたが、明智家臣としての存在感は決して無視できない。

伊勢貞興とは何者だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

伊勢貞興/wikipediaより引用

 


伊勢貞興は室町幕府の政所出身

伊勢貞興は永禄5年(1562年)、名門・伊勢氏の家系に生まれました。

伊勢氏は代々、室町幕府で政所頭人(まんどころとうに)の職に就いていた一族。

父は伊勢貞良(さだよし)で、兄・伊勢貞為も貞興の人生に関わってきます。

かように幕臣としては最高クラスの出身だった貞興は、世が世であれば政所頭人としてセレブな生活を謳歌していたでしょう。

先祖が山城国の守護に任じられていたことから、もっと大きな権力を手にしていたかもしれません。

しかし……貞興の生年に注目してください。

彼が生まれた永禄5年(1562年)は戦国時代真っただ中です。

桶狭間の戦い】が1560年ですので、まさに戦乱の最盛期へ突入したころであり、権威が失墜した幕府のもとでは名門・伊勢氏もその立場は保証されておりませんでした。

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それでも貞興の祖父である伊勢貞孝は、巧みにその情勢を乗り切ろうとします。

なんと将軍・足利義輝を追放した三好長慶の政治顧問となったのです。

 


追放された義輝が京都に戻ってきた!?

主君である室町幕府の将軍。

その義輝と対立していた三好長慶に臣従した貞孝は、幕府を裏切ってでも自身が生き残る道を選びました。

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実は、貞孝のように三好家臣として活動した幕臣は少なくありません。

長慶が義輝に味方する勢力を冷遇していたこともあり、幕府を裏切る者も続出したのです。

しかし、貞隆が見限った義輝は、想像以上に粘り強かった。

近江六角氏らの庇護を受けながら戦い続け、ついに長慶との間に和睦を結んだ上で京都へ舞い戻るのです。

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当然ながら、義輝と貞孝の関係性は悪化しております。そんな状態でふたたび貞孝が政所頭人の職に就いたところで、二人の仲が元に戻るわけもなく……。

永禄5年(1562年)、貞孝は謀反の疑いをかけられ討伐され、その子であり貞興の父でもある貞良も一緒に討たれました。

残された貞興の兄・貞為はわずか4歳。

貞興は生後間もない幼さです。

政所執事の職どころか、命さえ危ぶまれた伊勢兄弟は一体どう生き延びたのか。

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