源頼朝について鎌倉入りを果たした坂東武者たち。
御家人となった彼らの生活は大きく様変わりしました。
伊豆、相模、武蔵といった離れた領国に住んでいた者たちが、鎌倉という都市に集められたのです。
それまで、伊豆の北条時政と相模の三浦義澄が「酒を飲もう!」なんてことになれば、何らかの行事とか、ちょっとしたお出かけとなりました。

北条時政(右)と三浦義澄/wikipediaより引用
現代で言えば静岡県と神奈川県の友達が会うよりも距離感ありますから、結構なイベントですよね。
それが両者共に鎌倉に住んでいるとなれば、互いの家も気軽に行き来できます。
「おいしい酒をもらったぞ、みんなで飲もう!」
鎌倉殿がそう呼び掛ければ、御家人がワイワイと集まって飲む。
酔いが回ったら気分も良くなって、歌い踊る。
『吾妻鏡』にはそんな御家人たちの姿がしばしば登場します。
「現代の私たちと変わらないねw」という親近感すら抱くかもしれませんが、いやいや、スミマセン、そこは中世の武士です。
当時の宴会には、現代人なら楽しめない、絶対に参加したしたくない習慣や決まり事があったりします。
いったい何のことか?
鎌倉御家人の宴会の実態に迫ってみましょう。
宴会のメニューはヘルシー
『鎌倉殿の13人』では、北条時政がプレゼントとして野菜の「茄子」を届ける場面が出てきます。
焼いて食べたら美味そう……♪
そう嬉しそうに語る時政はなんとも素朴であり、息子の義時も八重に会うため、キノコや海産物をせっせと届けていました。
まだ宋との貿易もできない質素な伊豆や鎌倉では、お土産といえばおいしい食べ物が定番だったのでしょう。
絵巻物や当時の記録、便所跡を発掘すると、その食生活が把握できます。
一つずつ見て参りましょう。
◆野菜
茄子と瓜の種が便所跡から大量に出土します。
時政が劇中で嬉しそうに語っていた焼きナス、おそらく定番のメニューだったんですね。
◆獣肉
『鎌倉殿の13人』では、坂東武者たちが狩猟をする場面が出てきます。
鹿と猪の骨は大量に発掘されており、こちらも定番メニューであることがわかります。
『吾妻鏡』には
「獣肉を食べてしまい穢れたので、神事を休んだ」
なんて記述もよく出てきます。
うっかりしていたのか、出たくない口実のために食べたのか、あるいは食べたことにしたのか。
ともかくそんなマナーがあったんですね。
ただし、馬に乗って弓矢を装備した武士がウロウロしていたら、セキュリティ上問題があります。
『鎌倉殿の13人』では狩猟を名目に武装し、クーデターを狙う状況が出てきたりしますが、まだ鎌倉幕府草創期ならではのことと言えます。

都市として整備されていく過程で、そんな狩猟は制限されたことでしょう。
そもそも獣肉は、猟師が販売するようになったとみなされています。
「最近の若いモンは、俺らの若い頃と違って、猟師どもが売ってる肉を買うんだよ。情けねえなぁ」
時政世代からは、そんなボヤきもあったかもしれませんね。
◆海産物
ドラマでは義時自ら海産物を八重に届けておりました。
これも経済が発達すれば、そうせずに済むようになります。
サザエ、アワビ、アサリ、ハマグリといった貝類。
マグロ、マダイ、コイといった魚類。

そうした殻や骨がまとまって出土します。御家人は海産物を大いに楽しんでいたのでしょう。
◆デザート
菓子が当たり前に食べられるようになるには、まだまだ早い時代です。
小皿に桃の種が乗っかった状態で出土します。
甘いものといえばフルーツでした。
調味料と料理法は?
材料はだいたい把握できたでしょうか。
では調理法は?
これが実にシンプル。
基本は「口中調味」です。
当時の調味料は「醤醢(ひしお)」という、味噌や醤油のルーツとなるものでした。
穀物、肉、魚といったものに塩で味をつけたペーストです。
こうしたペーストを食べ、それから食材を口に入れる。口の中で味をつける。そんな単純極まりないものでした。
現代人からすれば焼いた野菜に味噌が添えてあるようなシンプルなもの。よくいえば、食材そのものの味を生かした健康的なもの。
ただ、現代人がそれで盛り上がるかどうかはまた別の話でしょう。
「もうちょっと凝った味ができないかな?」
そう先人たちが悩み改良したからこそ、和食は発達してゆくのです。
武士の食事でも時代が下った織田 信長の祝い膳となりますと、例えば以下の記事にもありますように「甘いデザートも備えた凝ったもの」となります。
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信長御膳の豪華な中身|信長が安土城で家康に振る舞った究極のグルメとは?
続きを見る
鎌倉時代の食事は和食の歴史を考えるうえでも重要。
かつては遣隋使と遣唐使があり、中国由来の調理法は最先端のものとして許容されました。
鎌倉時代の中国は、宋から元にあたります。
この時代は中華料理発展の時代であり、調理法の数々が成立したと考えられています。
東坡肉(トンポーロー)は宋にできあがった美食を代表するメニューといえます。
鎌倉には栄西のような中国帰りの僧侶もいました。

栄西/wikipediaより引用
しかし仏僧であるため、抹茶の普及には力を入れても、こうしたメニューは持ち込まなかったのです。
もしも伝わっていたら養豚も始まったのかもしれませんが、そうならなかったために猪を食べていた。
養豚の開始は幕末まで待たねばなりませんでした。
イベント会場で血の雨が降る
焼きナスや鹿肉をほおばり、お酒を飲んで盛り上がる。
そんなのどかな宴がそれだけで終わりません。
当時のマナーにはこんなことが書かれています。
・一人でなくみんなで楽しく飲もう!
・酔っ払って道をふらふら歩き回るな! みっともないから見られないように暗くなってから帰るか、車に乗ること!
・人の席にある料理を勝手に食べるな!
・状況にあわせて振る舞おう!
現代人にも通じるマナーのようで、それだけで済まないのが当時の御家人。
イベントでの暴力沙汰や殺人もありました。
劇中に出てくる凄惨極まりない事件も、レジャーやイベントで発生しています。
上総広常は劇中で描かれた通り、双六の最中に梶原景時に斬られました。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用
木曽義高の死後、御所で斬られてしまったのが一条忠頼です。
なぜのこのこ御所まで来たかと言いますと、飲み会があると誘われ、その席で討ち取られました。
何かと危険な時代です。
計画的な謀殺のみならず、宴席でのトラブルが命の危険につながってもおかしくはありません。
イベントでの謀殺は、当然のことながら古今東西嫌われます。
こうした催しは本来親睦を深め、信頼しているからこそ成立するもの――そんな安心感を破壊するとなると、普通以上に精神は削られます。
『鎌倉殿の13人』はそうした史実を用い、視聴者に心理的な打撃を与えることに成功したのですね。
おそるべき悪習「旅籠振舞」
流血沙汰には至らなくとも、おそるべきイベントが鎌倉にはありました。
旅籠振舞(はたごぶるまい)――そんな当時の悪習です。
「いざ鎌倉」という言葉が示すように、普段は自領に暮らしていて鎌倉に屋敷がない御家人でも、いざとなれば鎌倉にやって来なければなりません。
訴訟や職務のために出張し、鎌倉に滞在するわけです。支店長が本社に呼ばれるようなものですね。

武士イメージ男衾三郎絵詞2/wikipediaより引用
そうなると宿が要ります。
御家人たちが宿を確保すると、鎌倉の警備担当者たちがめざとくチェックをしています。そして彼らは自分の侍所に戻り、同僚たちにこう告げるのです。
「あの御家人、あそこを宿にしているってよ!」
「よっしゃー、旅籠振舞のチャンス到来だぜ!」
そして彼らは御家人の宿に押し寄せ、こんなことを言い出します。
「ちーっす、旅籠振舞やりますよね!」
「お、おう、楽しんでくれよな、旅籠振舞をさ……」
「いつもあざっす、サーセン!」
かくして御家人は押し寄せた連中を料理と酒でもてなし、引出物まで渡す羽目になるのです。しかも費用は全額自腹で。一体なんなんだ、これは!
地方から御家人が鎌倉までやってくると、その宿泊先に下級役人たちが宿に押しかけ、「群飲」=宴会をするように迫り、「引出物」=お土産まで求める。
これが「旅籠振舞」です。
しかも費用は御家人持ち。出張費用だけでも大変なのに、なぜか宴会費用までかかるのです。
現代に例えると、こうなります。
地方から本社に出張した支店長の宿泊先に、本社の社員、警備員、清掃員らが押しかけ、宴会をするように迫ってくる。
しかもお土産まで渡さなければならない。
なお費用は、出張者の支店長が支払うものとする。
理解しがたい悪習であり、当時の御家人たちも納得できませんでした。さすがに幕府も禁止令を出したものの、徹底されていなかったようです。
金欠でもう無理。つらい……そんな御家人の本音も当時の文書からはわかります。御家人の経済事情は辛かったのです。
「垸飯役」(おうばんやく)という役目もあります。おもてなし担当、いわば宴会幹事です。
もてなす対象は「傍輩」(ほうばい)、つまりは下級役人でした。
この役目もつらい。本人は宴会に参加できず、裏方にいる。費用は自腹。しかも、相手が要求してよいのです。
「ちょっとー、せっかくお正月なんだし、宴会でもやりましょうよ!」
そう傍輩(使用人たち)が押し寄せてきて、御家人が困り果てたこともありました。幕府は正月三日のみ許可することとしたのでした。
あまりに無茶苦茶な悪習です。
こんなものは別に後世に残さなくても良いと判断されたから、なくなったのでしょう。
上司が部下を労うにせよ、その結果として上司が金欠になったらたまったものではありません。
まとめますと、鎌倉時代の御家人パーティはこうなります。
・メニューは野菜や肉を焼いたバーベキューにディップが添えられたもの
・せいぜいデザートはフルーツくらい
・時と場合によっては暴力沙汰、謀殺も……
・出張して本社に行ったら会費を負担した上で宴会をやらされ、金欠に陥る
いかがでしょう。現代人には耐え難いのではないでしょうか。
ストレスが溜まる時代なのに、その発散手段である宴会ですらこうです。
そんなあまりに過酷な当時の御家人生活に思いを馳せ、現代はまだマシだと思う。
それも歴史を学ぶということかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
伊藤一美『鎌倉の謎を解く』(→amazon)
細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』(→amazon)
他







