天和3年(1683年)7月3日は家康の六男・松平忠輝が亡くなった日です。
天下人・家康の息子なのに苗字が違うあたりからして、なんとなく不穏な感じがしましょうか。
この忠輝は、父親に理不尽な嫌われ方をされ続けています。
その理由が「生母の身分が低いから」とか「顔が醜かったから」など、なんだか切ないものばかり。
一体なぜそんなことになってしまったのか、振り返ってみましょう。
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秀康と忠輝の命運を分けたもの
「結城秀康も松平忠輝も双子で生まれたから、不吉だとして家康に嫌われた」なんて説もあります。
そうなると家康ばかりを責めるのも可哀想かもしれません。
当時の双子は
「人間は一人ずつ生まれるのが当たり前なのに、犬猫のように何人も生まれるのはおかしい! 母親は畜生に違いない!」
……という、科学が発達していない時代ゆえの誤解を受けていたのです。
双子が生まれると片方を殺したり、別の家に養子として出すことが多かったようですね。
しかし、家康が自分の気持ちを書き残しているわけではないので、確たる証拠とはいえません。
一部地域では逆に、双子を瑞兆としているところもあるようですし。
秀康の場合は長兄の松平信康が「まあまあ父上、武将に顔は関係ないんですから」となだめてくれたこと、その信康が早くに死んでしまったことで、秀康に別の価値が生まれて何とかなったのですが、忠輝にはそういうことがありません。
この違いが、父親に嫌われた同士でも秀康と忠輝の命運を分けていくことになります。
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弟の後釜に据えられる屈辱
松平忠輝がいかに家康から嫌われていたか?
その出世の仕方を見るのが一番わかりやすいでしょう。
少し長くなりますが、忠輝の同母弟・松千代と絡んだ話があります。
松千代は文禄3年(1594年)生まれ。忠輝の7歳下です。
家康は松千代に対しては他意がなかったらしく、生まれた直後から”長沢松平家”という遠い親戚筋の家を継ぐことが決まっていました。
しかし、松千代は慶長四年(1599年)1月に夭折してしまいました。
すると家康は「忠輝、お前が長沢松平家に入れ」と命じたのです。
”弟の代わりに親戚の家を継げ”とは……ない話ではありませんが、どうにもスッキリしない話です。
当事者としても微妙な気持ちだったでしょうね。
その後、忠輝も少しずつ加増や移封を重ねて出世していきましたが、”10歳前後で年下の御三家初代たち(義直・頼宣・頼房)よりも所領が少ない”という、不遇な扱いを受け続けます。
ここまでされるからには、顔や双子説以外の理由がありそうなものですが……残念ながら、その候補は見つかっていません。
政宗の娘・五郎八姫と結婚
松平忠輝の扱いが少しだけマシになったのは、伊達政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)と結婚してからでした。
このお姫様、政宗によって
「男の名前しか考えてなかったけど、”いろは”って読ませればいいよね!」
という、機転が利いてるんだか屁理屈なんだかよくわからん名付け方をされたせいか、とても勝気な人だったようです。
まぁ政宗にとっては初めて正室にできた子供だったので、男の子を望むのは当たり前ですし、しょうがないっちゃしょうがないんですが。
忠輝は武術だけでなく茶道や絵画も趣味としていたためか、この奥さんとはうまくやっていけたそうで、舅の政宗ともいろいろ行動を共にしています。
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こうして後ろ盾を得て、少し地位が向上したためか、忠輝は徳川秀忠の将軍就任後にちょっとした活躍をしています。
それはどんな話だったか?
この頃、まだ豊臣家は健在でした。
彼らからすれば
「家康はもう老人。亡くなればきっと天下は秀頼に返ってくる」
というのが最後の希望。
しかし、家康は当然お見通しでした。
自分が生きているうちに秀忠へ将軍職を継承させ、豊臣家へ権力を返す可能性を完全に否定したのです。
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さらに、家康は秀吉の正室だった高台院(ねね)を通して
「秀頼様に江戸へご足労いただき、秀忠の将軍就任を祝っていただきたい」
とまで申し入れました。
これは秀頼に対し、「徳川家の下風に立て」と言ったも同然。
当然、秀頼の生母・淀殿は大激怒、拒絶しました。
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