日本史で「板垣」と言えば?
「板垣死すとも自由は死せず!」
多くの方がそう答えるであろう、この一節。
ご存知、板垣退助が暴漢に襲われたときに言い放ったとされ、彼が携わった【自由民権運動】の代名詞と言ってもよい言葉でしょう。
そんなイメージから、てっきり明治維新後に頭角を現した偉人かと思いきや、実はこの板垣、江戸時代に生まれて青年期に幕末を迎え、土佐藩士として戊辰戦争でも活躍しています。
おまけに「喧嘩っ早い」ことで知られ、なんだか歴史の授業で聞いた人物像と違うぞ……という魅力があったりします。
では板垣退助とは如何なる人物で、どんな功績を残してきたか。
大正8年(1919年)7月16日は命日、その生涯を振り返ってみましょう。
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実は坂本龍馬と同世代
板垣退助については自由民権運動のイメージが強いため、幕末でも後期に生まれた印象があるかもしれません。
主な人物と関係者の生年と比較してみますと、以下のようになります。
文政10年(1827年・10才上)山内容堂(本稿では“容堂”で統一)西郷隆盛
文政12年(1829年・8才上)武市半平太
文政13年(1830年・7才上)吉田東洋 吉田松陰 大久保利通
天保2年(1831年・6才上)孝明天皇
天保6年(1835年・2才上)坂本龍馬
天保8年(1837年)板垣退助 徳川慶喜
幕末に活躍した世代であり、戊辰戦争でも戦功を立てています。
もしも龍馬が生きていたら……そんな思いは歴史ファンによくあるものです。板垣の生き方からそのヒントが掴めるかもしれません。
高知に生まれ後藤象二郎の親友に
天保8年(1837年)、土佐藩上士・乾正成の嫡男として生まれました。
母は林氏の幸。
猪之助12歳のときに、この幸は亡くなってしまい、15歳のときには、父が再婚した継母も失ってしまう、不幸に遭遇(呼び名はしばらく「退助」で統一)。
一方で退助には、兄弟のように親しい土佐藩士がいました。1才年下の後藤象二郎です。
互いを幼名の「いのす」「やす」と呼び合う間柄だった二人は、退助が象二郎の嫌いな蛇を投げつければ、逆に象二郎が犬の糞を投げつけて返し、潔癖症の退助が降参してしまう。
そんなやんちゃな少年時代であり、喧嘩をすれば必ず勝つように鍛えていたとされます。
これは何も退助一人の個性ではなく、武家に生まれた男子であれば同じような傾向がありました。
文武両道の武士となるべく、自己鍛錬を怠らないよう勤めていたのです。
しかし退助には、何事も度を過ぎる傾向もありました。
幼い頃は遊泳で耳に水が入って聴力が落ちてしまい、しまいには喧嘩に明け暮れすぎて廃嫡されてしまうのです。
後に廃嫡は解かれ、万延元年(1860年)、父の死後は家督を継いだものの、一悶着はありました。
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