織田信長の兄弟姉妹と言えば?
圧倒的に有名なのが「お市」でしょう。
大河ドラマ『どうする家康』では北川景子さんが演じ、さらにはその娘・淀殿(茶々)でも再登板となったことから話題になっています。
しかし信長の兄弟でもう一人、後世に名を残した人物がいるのをご存知でしょうか。
織田長益――織田有楽斎としても知られる、この信長の弟は、お市や淀殿とも関係が深く、さらには徳川家康にも通じ、自身の血脈を残しました。
武名を轟かせたわけではない。
されど織田・豊臣・徳川の間で重要な役割を担った。

織田有楽斎/wikipediaより引用
元和7年(1622年)12月13日はその命日。一風変わった織田長益の生涯を振り返ってみましょう。
信長弟の一人として
織田信長はきょうだいが多くいます。
父の織田信秀は子が多く、男子だけでも12人、女子も10人以上。

織田信秀/wikipediaより引用
源五郎と呼ばれた織田長益は、10番または11番目の男子とされます。
信長の13歳下であり、母は不明で、市とはほぼ同年となりますが、これだけ兄弟が多いと、よほど武功を立てねば目立たないのか。
兄の生前は織田家の一人として、在陣が確認できるくらいの存在感しかありません。
合戦や行事で諸将の名が記されている一覧に、名前が確認できる程度の長益。
信長の嫡男・織田信忠の配下にいることが多い配置でした。
本能寺を脱出し 天下を渡る
天正10年(1582年)6月2日は織田長益にとっても運命の一日となりました。
【本能寺の変】が勃発したのです。
当日の長益は信忠と共に京都御所にいて、甥であり織田家の現当主でもある信忠が討たれる最期を選ぶも、長益は決死の脱出を成功させ、岐阜にたどりつきました。
兄とその嫡男が討たれる中、何をおめおめと逃げているのか、それでも人の心はあるのか。
京雀たちは長益に呆れ果てましたが、ともあれ彼は生き延びた。
そしてその器用さは、本能寺後にこそ発揮されるのです。
岐阜まで辿り着いた長益は、信長の二男・織田信雄に仕えました。

織田信雄/wikipediaより引用
信雄と徳川家康が手を組み、豊臣秀吉と対峙した【小牧・長久手の戦い】にも参戦。
とはいっても、彼の役割は武功というより折衝役として発揮されるようで、こじれた間をとりもつ長益の姿が浮かんできます。
信長の三男である信孝はすでに敗死。
信雄もこの一戦で権威は失墜し、信忠の嫡子である三法師は傀儡と化しました。
そんな黄昏の織田一族のなかで、長益はどうしていたのか?
天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜されております。
一体この間に何があったのか?
彼と縁が深い浅井三姉妹について振り返ってみましょう。
姪の浅井茶々を見守る
織田長益とは同年代の妹・市と、浅井長政の間には三姉妹が生まれていました。
本能寺の変後、母の市は柴田勝家に嫁ぎ、天正11年(1583年)勝家が秀吉との争いに敗れると、夫妻は自刃。
親を失った浅井三姉妹はどうなったのか。
諸説ありますが、京極龍子、または織田長益が庇護したという説があります。
天正16年(1588年)は、浅井三姉妹の長姉・茶々が秀吉の寵愛を受けたとされる頃のこと。

茶々(淀殿)/wikipediaより引用
茶々が伯父である長益と何らかの関係があると仮定すれば、豊臣姓を下賜されてもおかしくはないでしょう。
親のいない茶々にとって、長益は父親代わりだとしてもおかしくはありません。
千利休の教えを受けた「利休十哲」の一人にも数えられる長益ですから、秀吉が茶々に茶を献じて話し相手になっても不思議はない。
武功の人としてよりも、客人をもてなし、折衝を担当する、そんなフィクサーとしての姿が見えてきます。
天正18年(1590年)、甥の織田信雄が改易されました。
長益は織田家の復興よりも、秀吉の御伽衆となる道を選び、摂津に二千石を与えられます。
このころ剃髪して有楽と名乗りますので、ここから先は織田有楽斎と記します。
出産に際して淀城を与えられた茶々は「淀殿」となりました。
有楽斎と淀殿――この伯父と姪は、秀吉の庇護のもと生きることとなります。
関白となった秀吉にとって、待望の男児が生まれたのです。その母と大伯父となれば、栄華は思いのままと思われたことでしょう。
淀殿の隣にいて家康にも通じる
織田有楽斎が出産に立ち会った鶴松は、わずか三歳で亡くなってしまいます。
それが天正19年(1591年)8月5日のこと。
秀吉にとっても、有楽斎にとっても不幸な事態ですが、程なくして淀殿が再び懐妊し、文禄2年(1593年)8月3日に二人目の男子を出産します。
豊臣秀頼の名で知られる第二子の拾です。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
しかし皮肉なことに、拾誕生後の豊臣家は、陽が傾き始めたようにも思える。
後継者であったはずの豊臣秀次の死。
その妻妾の大量処刑に伴う不満の蓄積。
【朝鮮出兵】によって鬱積する諸将の不満。
そんな不穏な空気が漂う中、慶長3年8月18日(1598年9月18日)、今度は豊臣秀吉が世を去りました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
もはや天下は豊臣にはあるまい……
秀吉が落命した時点で、少なくない者たちが『もはや天下は豊臣にない……』と眼を光らせ始めていました。
無理に元服させられた豊臣秀頼はまだまだ幼い。
淀殿の横で秀頼を支えていた織田有楽斎も、これでは持たぬと痛感していたことでしょう。
実際、秀吉の死後、有楽斎は常に徳川家康と通じていたと考えられます。

徳川家康/wikipediaより引用
家康と利家が対立したときも、すぐさま徳川家康の味方について警護に駆けつけ、【関ヶ原の戦い】でも、長男・織田長孝ともども東軍につきました。
寡兵なれど勇戦したこの戦い、有楽斎にとって最大の戦功と言えるかもしれません。
それ以上に、淀殿と秀頼の側近ある有楽斎が味方についたということは、家康に大義名分を与えることにもなります。
誰が秀頼公随一の忠臣か、決めるものである――その言い分に説得力を与えたともいえます。
ここまでしておきながら、淀殿に突き放されなかったのが有楽斎の凄みでしょうか。
家康と秀忠が東国政権を固める中、大坂城の淀殿と秀頼のそばには有楽斎の姿も見ることができたのです。
関ヶ原のあと、信心深い淀殿は寺社建立や再建に注力し、それが豊臣家の散財に繋がったとされます。
豊臣家には大量の金銀がありました。
裕福な大坂城にいる有楽斎も、そうしたマネーの力にあやかっても不思議はないところ。
名刹として名高い建仁寺に子院・正伝院を再建し、そこに茶室・如庵を設けました。
この如庵は犬山城に移され、国宝に指定されています。
庭園を含めて「有楽苑」とされ、愛知県犬山市を代表する観光スポットとなっているのです。

国宝茶室如庵(有楽苑内)
しばらくの間、大坂城には平穏な日々が続いてきました。
有楽斎も好きな茶の道を楽しむことができたのでしょう。
しかし、それも終わりを告げます。
二条城の会見を実現させるが
慶長16年(1611年)、後陽成天皇譲位にともない、家康が上洛。
このとき家康から織田有楽斎に頼みがありました。
「秀頼を上洛させよ」というのです。
特に反対されることもなく、秀頼は上洛。
二条城で家康と秀頼が対面を果たすとき、秀頼の供の中に有楽斎もおりました。
秀頼は上洛を機に朝廷や公家ともつきあい、西を治めるものとしての力量を見せました。幼かった秀頼も、すでに19歳の青年にとなっていたのです。
それから3年経た慶長19年(1614年)、【方広寺鐘銘事件】が起こります。

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」/wikipediaより引用
秀吉のはじめた方広寺大仏殿造営は、京都地震や火災により頓挫しながら、ここにきて、ようやく終わっていたのです。
しかし、歴史の授業でもおなじみ、鐘銘文が問題視されます。
国家安康→家康の諱の間に一字入れて、わざと切っている
君臣豊楽→豊臣を君主として楽しむと読める
難癖をつけているようですが、実際に銘文を考えた文英清韓が、敢えて書いたとか。
家康に弁明するため、片桐且元が駿府へ向かい、このあと淀殿も大蔵卿局ら三名の女性を使者として駿府に派遣します。

片桐且元/wikipediaより引用
別々に派遣された彼らは帰路合流し、且元は和解へ向けた案を説明します。
・秀頼は大坂城を出て、伊勢か大和へ移る
・秀頼は他の大名のように、駿府と江戸に参勤する
・大政所を人質とした秀吉にならって、淀殿を人質とする
これを聞いた大蔵卿局たちは且元に不信感を抱き、耐えきれなくなった且元は大坂を離れてしまいました。
茶々が起請文まで書いて引き留めようとしますが、もはや遅い。
且元の去ったあとの交渉役として、織田有楽斎の重みはますます増してゆきます。
大坂城内からの和睦を望むも
片桐且元が去った翌日、慶長19年(1614年)10月2日――大坂城から豊臣恩顧の将たちに檄文が飛ばされました。
かくして始まった【大坂冬の陣】。
有楽斎の為すべきことは、淀殿と秀頼の説得でした。東軍の本多正純や後藤光次らと連携しつつ、落とし所を探っていたのです。

嫡男の頼長が血気にはやり戦おうとする中、有楽斎は交渉に賭けました。
・淀殿を人質とする
・国替えとする。牢人を養うために加増をして欲しい
家康はこの案を拒否します。
なぜ牢人を養わねばならぬのか。それこそ危険要因ではないか。
そう思っても仕方のないところで、交渉が決裂する中、家康はイギリスから仕入れた大砲で城を攻撃。
驚いた大坂方は、和議を受け入れます。
その条件に「大坂城の城割り(城としての防衛機構の破壊)」が含まれ、ここに認識の差があったとされます。
家康は、本丸だけを残し、城塞としての機能を奪うことを意図していた。
大坂方は、象徴として儀礼的なものだと甘くみていた。
慶長20年(1615年)となりました。
講和が成立したにもかかわらず、淀殿と秀頼たちはなおも警戒をゆるめません。
ほとほと疲れ果てたのか。織田有楽斎は「もうどうしようもないから、大坂城を出たい」と徳川側に連絡を入れました。
有楽斎は、大坂城に留まりながらもしきりと使者を送っています。
秀頼の近習も外様も武装を解かない。これでは秀忠様の意に背くとさんざん諫言しているのに聞き入れてもらえない。秀頼と淀殿、その近臣も聞き入れる様子がない。
もはやこれまで。そうして子の長孝ともども大坂を離れることにしたい、と。
これを知った徳川方も、致し方ないと納得します。
頼みの綱である有楽斎がこの有様では……かくして【大坂夏の陣】が起こり、豊臣家は滅びました。
有楽斎がときに庇護し、時に支えてきた淀殿と秀頼は、こうして炎の中に消えてしまったのです。
慶長20年(1615年)、【本能寺の変】から33年後のことでした。
この歳の8月、有楽斎は四男・長政、五男・尚長に一万石を与えます。二子の子孫は外様藩の祖となり、明治まで存続しました。
有楽斎本人は、隠居料一万石で隠居生活を送り、それから7年後の元和7年(1622年)、京都で亡くなりました。
享年75。
有楽町に残ったその名
彼の残した茶室「如庵」は国宝となりました。
有楽斎は徳川家康から、江戸の数寄屋橋(すきやばし)御門の周辺あたりに屋敷を拝領しています。
その屋敷跡が「有楽原」と呼ばれ、明治時代になると「有楽町」と改称され現在まで残っています。
明治以降、大名屋敷は取り壊され、名が残ったことは稀です。
その類まれな一例として、織田有楽斎は有楽町にその名を残しています。
生き延びることに賭け、あらんかぎりの手段を尽くしてきた織田有楽斎。
彼は、意外なかたちで名を残したのでした。
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【参考文献】
福田千鶴『淀殿:われ太閤の妻となりて』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他





