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【織田有楽斎(長益)】
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大坂城内からの和睦を望むも
片桐且元が去った翌日、慶長19年(1614年)10月2日――大坂城から豊臣恩顧の将たちに檄文が飛ばされました。
かくして始まった【大坂冬の陣】。
有楽斎の為すべきことは、淀殿と秀頼の説得でした。東軍の本多正純や後藤光次らと連携しつつ、落とし所を探っていたのです。
嫡男の頼長が血気にはやり戦おうとする中、有楽斎は交渉に賭けました。
・淀殿を人質とする
・国替えとする。牢人を養うために加増をして欲しい
家康はこの案を拒否します。
なぜ牢人を養わねばならぬのか。それこそ危険要因ではないか。
そう思っても仕方のないところで、交渉が決裂する中、家康はイギリスから仕入れた大砲で城を攻撃。
驚いた大坂方は、和議を受け入れます。
その条件に「大坂城の城割り(城としての防衛機構の破壊)」が含まれ、ここに認識の差があったとされます。
家康は、本丸だけを残し、城塞としての機能を奪うことを意図していた。
大坂方は、象徴として儀礼的なものだと甘くみていた。
慶長20年(1615年)となりました。
講和が成立したにもかかわらず、淀殿と秀頼たちはなおも警戒をゆるめません。
ほとほと疲れ果てたのか。織田有楽斎は「もうどうしようもないから、大坂城を出たい」と徳川側に連絡を入れました。
有楽斎は、大坂城に留まりながらもしきりと使者を送っています。
秀頼の近習も外様も武装を解かない。これでは秀忠様の意に背くとさんざん諫言しているのに聞き入れてもらえない。秀頼と淀殿、その近臣も聞き入れる様子がない。
もはやこれまで。そうして子の長孝ともども大坂を離れることにしたい、と。
これを知った徳川方も、致し方ないと納得します。
頼みの綱である有楽斎がこの有様では……かくして【大坂夏の陣】が起こり、豊臣家は滅びました。
有楽斎がときに庇護し、時に支えてきた淀殿と秀頼は、こうして炎の中に消えてしまったのです。
慶長20年(1615年)、【本能寺の変】から33年後のことでした。
この歳の8月、有楽斎は四男・長政、五男・尚長に一万石を与えます。二子の子孫は外様藩の祖となり、明治まで存続しました。
有楽斎本人は、隠居料一万石で隠居生活を送り、それから7年後の元和7年(1622年)、京都で亡くなりました。
享年75。
有楽町に残ったその名
彼の残した茶室「如庵」は国宝となりました。
有楽斎は徳川家康から、江戸の数寄屋橋(すきやばし)御門の周辺あたりに屋敷を拝領しています。
その屋敷跡が「有楽原」と呼ばれ、明治時代になると「有楽町」と改称され現在まで残っています。
明治以降、大名屋敷は取り壊され、名が残ったことは稀です。
その類まれな一例として、織田有楽斎は有楽町にその名を残しています。
生き延びることに賭け、あらんかぎりの手段を尽くしてきた織田有楽斎。
彼は、意外なかたちで名を残したのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田千鶴『淀殿:われ太閤の妻となりて』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他