後一条天皇

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

彰子と一条天皇の皇子・敦成親王|後の「後一条天皇」はどんな人物だった?

2025/04/16

長元9年(1036年)4月17日は後一条天皇の命日です。

その最もインパクトあるエピソードと言えば、母の彰子から生まれてくる場面でしょう。

『紫式部日記』に克明に記されていることから、大河ドラマ『光る君へ』でも大いに注目されました……が、問題はその後です。

とにかく印象が薄い。

在位中に何かと出来事の多かった一条天皇や、道長との対立していた三条天皇と比べると、後一条天皇の人となりを表す話はほとんど出て来ず、どんな人物に成長したのか見当もつかない方もいらっしゃるでしょう。

何故そうなってしまったのか?

本記事で後一条天皇の生涯を振り返ってみたいと思います。

こちらは父の一条天皇/wikipediaより引用

 


父は一条天皇 母は彰子

後一条天皇は寛弘五年(1008年)9月11日、一条天皇の第二皇子として生まれました。

母は藤原道長の娘・藤原彰子。

彼女にとっては初めての子供でしたし、道長待望の男子でもありましたので、嬉しさやら安堵やら、とにかく色々と喜びがあったでしょう。

諱は敦成(あつひら)と言います。

天皇の名前としては比較的知られているほうでしょう。前述の通り『紫式部日記』に誕生時の様子が詳しく記されているからです。

彰子はこのとき初産だったこともあって、かなりの難産で、僧侶たちの祈祷はもちろん、道長も念仏を唱えていたといいます。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

あまりにお産が長引いたので、紫式部を含めた女房たちも不安になり、泣いてしまう人も多かったとか。

逆に、その様子を冷静に記憶し、記録していた紫式部の胆力に感嘆します。

なんせ女房たちの様子を記した部分では、こんな風に描かれているのです。

「後産が下りるまで皆気が抜けず、女房たちは涙で化粧が剥げてしまい、衣装もぺちゃんこになって散々になりおかしなものだった」

妙に生々しい!

さすが紫式部の筆力とでもいいましょうか。

なんでも、普段はキチッとしていた女房ですら例外ではなかったようで、読み手からすると良い意味でイメージが裏切られて、親近感すら湧いてきますよね。

 


御帳台の中で「犬が子供を産む」

後一条天皇は誕生前、母・彰子のお腹にいた頃にも、こんな逸話もあります。

あるとき御帳台の中で「犬が子供を産む」という珍事がありました。

当時は何か変わったことがあった場合、占いや前例などに詳しい人を呼び、吉兆か凶兆かを訪ねるのがお決まりであり、このとき呼ばれたのが学者の大江匡衡(おおえのまさひら)でした。

源倫子や藤原彰子の家庭教師としてお馴染み、赤染衛門の夫ですね。

大江匡衡/wikipediaより引用

犬の出産について問われた匡衡は、次のように答えています。

「犬という字の点を上につければ『天』、下につければ『太』となります。そしてそれぞれに『子』をつければ『天子』『太子』となりますので、皇子がお生まれになる吉兆でございます」

そしてその通りに一条天皇の第二皇子となる敦成親王こと後一条天皇が生まれました、というものです。

そもそも1/2の確率で当たるものですし、天皇の子に対して“凶兆”だなんて言えないだろ――そんなツッコミを入れたくなりますが、ともかく中宮生まれの皇子ですから前途は安泰。

父・一条天皇との対面も無事終わり、誕生の翌月には親王宣下も行われ、順調な人生のスタートでした。

 

三条天皇が即位

不幸といえば、寛弘八年(1011年)に父帝と死別したことでしょうか。

一条天皇はこのときまだ32歳でしたが、生来の病弱さのためか突如重体となり、間もなく崩御してしまったのです。

新たな天皇は、いとこにあたる三条天皇。

三条天皇/wikipediaより引用

新帝の即位にともなって、数え四歳の敦成親王が皇太子に立てられました。

三条天皇には既に敦明親王(994年に生誕)という第一皇子がいて、道長との軋轢から後に皇太子の座を巡ってドタバタがありますが、その詳細は後述するとして。

本稿の主役・後一条天皇にはこの頃、生母・彰子との逸話があります。

まだ人の死を理解できない敦成親王が、あるとき撫子の花を手に取ると、それを見た彰子が次の歌を詠んだというものです。

見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花

【意訳】撫子の花を手に取った我が子よ、まだお父上が亡くなったことをわかっていないのですね。あどけなくて涙が出てしまいます

撫子の花は「撫で子」とかけられ、子供を可愛がる表現や「可愛い子供」にかけてよく用いられました。

ですので、まだまだ父帝に可愛がられる時間があったはずの我が子を見て、彰子のほうが物悲しくなってしまったのでしょう。

この逸話には登場しませんが、彰子には一条天皇との間にもう一人、敦良親王(あつながしんのう・後の後朱雀天皇)という皇子がいましたので、幼い息子二人を抱える母としての不安もあったでしょう。

 


9歳で即位 皇太子は敦明親王となるが……

まだ幼い敦成親王(あつひらしんのう)の知らないところでは政争が繰り広げられていました。

一日も早く自らの孫である敦成親王を天皇にしたい道長と、それになんとか対抗しようとする三条天皇との間で、深い亀裂が生まれていたのです。

勝負は呆気なく決まります。

長和三年(1014年)に三条天皇が眼病にかかってしまい、道長の圧迫が強まったため、ついに三条天皇は譲位へ追い込まれました。

しかし三条天皇は、譲位に際してこんな条件を出します。

「自分の第一皇子である敦明親王を皇太子にすること」

結果、長和五年(1016年)、敦成親王はわずか9歳で即位し、後一条天皇となったのです。

摂政はもちろん道長。

そして翌寛仁元年(1017年)8月には、せっかく皇太子となった敦明親王も自らその位を降りました。

敦明親王は妻の実家(藤原顕光)が頼りにならない上、他に道長に対抗できる者もおらず、皇太子の地位を守り続けることは難しいと判断したようです。

また、敦明親王は後一条天皇よりも14歳上のため、譲位される前に自信が薨去してしまう可能性もありました。

ともかく皇太子を降りた敦明親王は、今度は道長から深く感謝されることになり、便宜を計ってもらうことに。

その後も色々とありますが、詳細は以下、敦明親王の記事をご覧ください。

敦明親王
意外と好戦的な敦明親王(三条天皇の第一皇子)道長の圧迫で皇太子を譲る

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後一条天皇の即位に伴い、新たな皇太子には、後一条天皇の同母弟(彰子の第二子)である敦良親王(後朱雀天皇)が立てられました。

道長は、これ以上ないぐらいのホクホク顔です。

自らは嫡子である藤原頼通へ藤氏長者の座を譲り、これに応じて後一条天皇は頼通を摂政に任じ、翌年には関白にしました。

後朱雀天皇(東宮期の敦良親王)/wikipediaより引用

そして注目は、やはり後一条天皇の妻でありましょう。

いったい誰が入内したのか?というと……。

 

道長の娘・威子が入内して「望月」の歌

寛仁二年(1018年)になると後一条天皇は元服し、同年10月に道長の娘・藤原威子が中宮に立てられました。

これで道長の娘が三人同時に后となるのです。

◆后となった道長の娘たち

藤原威子:皇后(=中宮)道長の四女

藤原妍子:皇太后(三条天皇の皇后)道長の次女

藤原彰子:太皇太后(後一条天皇生母)道長の長女

かの有名な「望月」の歌が詠まれたのはこの頃ですが、得意顔になるのも当然の状況ですね。

威子と後一条天皇は血筋でいえば”叔母と甥の結婚”ということになりますが、年齢としては9歳差で、当時の感覚ではありえなくはないといったところ。

夫婦仲も比較的良好だったようで、万寿三年(1027年)に章子内親王、そして長元二年(1029年)には馨子内親王に恵まれています。

藤原威子
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とはいえ、内親王しか生まれなかったので、特に次女である馨子内親王誕生の際は、貴族たちが冷ややかな態度を示したとか。

本人の責任ではないのでかわいそうな気もしますが、どこの家でもまず跡継ぎを得るのが最大の目的ですからね……。

とはいえ、これは周りの責任でもあります。

彰子や頼通が自らの家(御堂流)以外を外戚にさせまいとして、他の家から后妃を出させなかったのです。

周りも遠慮して後宮政治に参加しようとしなかったため、ますますそれが加速してしまいました。

これでは後一条天皇が皇子に恵まれなかったのも致し方ないところ。

当時の皇太子(敦良親王)も彰子の子供であり、そちらにも道長の娘が入内していたので、敦良親王に望みをかけようとしたのでしょうか。

 

源顕基に励まされ

ところで、皆様お気づきでしょうか。

ここまで”後一条天皇の周辺人物の動き”は出てきていながら、”後一条天皇本人の言動”がほとんど無いことに……。

政治的にも私生活的にも母(藤原彰子)と叔父(藤原頼通)にガッチリ固められてしまっていたので、致し方ないところではあります。

後一条天皇が厚く信頼していた公家から逸話が伝わっていますので、そちらを見てみましょう。

源顕基(あきもと)という人です。

源顕基(菊池容斎画)/wikipediaより引用

顕基は漢詩の朗詠を得意としており、宮中でもよく詠じていました。

そんなある日、彰子が宮中の様子を見て

「一条院がお亡くなりになってから、まだ何年も経っていないのにずいぶん変わってしまいましたね」

と言ったことがありました。

彰子に悪気はなかったと思われますが、これを密かに後一条天皇が聞いてしまい、恥ずかしく思っていたそうです。

そこに顕基が詩を朗じる声が聞こえてきて、彰子は「彼の声だけは変わっていませんね」と感想をもらしたのだとか。

後一条天皇は、この顕基の朗詠と彰子の言葉に励まされたといいます。

もしかすると、それをきっかけに顕基への親近感がわいて、寵愛したのかもしれませんね。

顕基もその信頼によく応え、忠実に仕えました。

顕基は長保二年(1000年)生まれで後一条天皇からすると年長者ですが、中宮・威子と顕基は年が近いので、そのあたりも親しみがわいたのかもしれません。

 

29歳の若さで崩御 原因は?

庇護者である彰子や頼通が健康・長命だったためか、後一条天皇の治世中は大きな政治的混乱はなく、比較的穏やかに過ぎていきました。

しかし肝心の後一条天皇本人が長元九年(1036年)に突然倒れ、29歳の若さで崩御してしまいました。

譲位の儀式をする前に亡くなってしまったそうですから、急激に容態が悪化したのか。

『栄花物語』では糖尿病のような症状が書かれています。

糖尿病は家族歴があると発症しやすく、祖父・道長(その兄の藤原道隆)も糖尿病に悩んでいた記録が残されていて、遺伝が原因だったのかもしれません。

なんとか遺言は残せたようで、後一条天皇の崩御はいったん隠され、皇太弟・敦良親王への譲位が行われてから発喪となりました。

これによって「存命中に譲位し、その後崩御」という形式になり、上皇としての葬儀が行えるためです。

当時は現職の天皇は土葬、上皇は火葬という慣例があったことも理由かと考えられます。

また、前述の源顕基は「忠臣は二君に仕えず」として比叡山に入って出家し、のちに上醍醐の地で生涯を終えたとか。

子供に先立たれるのもつらいものですが、自分を頼ってくれた年下の主君を喪うのも悲しいでしょうね……。

母・彰子や叔父・頼通の発言力が強すぎたことに加え、本人は若くして崩御。

さらには誕生前の逸話にインパクトがありすぎて、やはり後一条天皇本人がどのような人柄だったのか、どうしてもわかりにくいですね。


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【参考】
国史大辞典
『十訓抄』(→amazon
『新訳 後拾遺和歌集』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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