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【後一条天皇】
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道長の娘・威子が入内して「望月」の歌
寛仁二年(1018年)になると後一条天皇は元服し、同年10月に道長の娘・藤原威子が中宮に立てられました。
これで道長の娘が三人同時に后となるのです。
かの有名な「望月」の歌が詠まれたのはこの頃ですが、得意顔になるのも当然の状況ですね。
威子と後一条天皇は血筋でいえば”叔母と甥の結婚”ということになりますが、年齢としては9歳差で、当時の感覚ではありえなくはないといったところ。
夫婦仲も比較的良好だったようで、万寿三年(1027年)に章子内親王、そして長元二年(1029年)には馨子内親王に恵まれています。
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道長の三女・藤原威子は甥の後一条天皇に入内~愛されながら皇子出産の悲願ならず
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とはいえ、内親王しか生まれなかったので、特に次女である馨子内親王誕生の際は、貴族たちが冷ややかな態度を示したとか。
本人の責任ではないのでかわいそうな気もしますが、どこの家でもまず跡継ぎを得るのが最大の目的ですからね……。
とはいえ、これは周りの責任でもあります。
彰子や頼通が自らの家(御堂流)以外を外戚にさせまいとして、他の家から后妃を出させなかったのです。
周りも遠慮して後宮政治に参加しようとしなかったため、ますますそれが加速してしまいました。
これでは後一条天皇が皇子に恵まれなかったのも致し方ないところ。
当時の皇太子(敦良親王)も彰子の子供であり、そちらにも道長の娘が入内していたので、敦良親王に望みをかけようとしたのでしょうか。
源顕基に励まされ
ところで、皆様お気づきでしょうか。
ここまで”後一条天皇の周辺人物の動き”は出てきていながら、”後一条天皇本人の言動”がほとんど無いことに……。
政治的にも私生活的にも母(藤原彰子)と叔父(藤原頼通)にガッチリ固められてしまっていたので、致し方ないところではあります。
後一条天皇が厚く信頼していた公家から逸話が伝わっていますので、そちらを見てみましょう。
源顕基(あきもと)という人です。

源顕基(菊池容斎画)/wikipediaより引用
顕基は漢詩の朗詠を得意としており、宮中でもよく詠じていました。
そんなある日、彰子が宮中の様子を見て
「一条院がお亡くなりになってから、まだ何年も経っていないのにずいぶん変わってしまいましたね」
と言ったことがありました。
彰子に悪気はなかったと思われますが、これを密かに後一条天皇が聞いてしまい、恥ずかしく思っていたそうです。
そこに顕基が詩を朗じる声が聞こえてきて、彰子は「彼の声だけは変わっていませんね」と感想をもらしたのだとか。
後一条天皇は、この顕基の朗詠と彰子の言葉に励まされたといいます。
もしかすると、それをきっかけに顕基への親近感がわいて、寵愛したのかもしれませんね。
顕基もその信頼によく応え、忠実に仕えました。
顕基は長保二年(1000年)生まれで後一条天皇からすると年長者ですが、中宮・威子と顕基は年が近いので、そのあたりも親しみがわいたのかもしれません。
29歳の若さで崩御 原因は?
庇護者である彰子や頼通が健康・長命だったためか、後一条天皇の治世中は大きな政治的混乱はなく、比較的穏やかに過ぎていきました。
しかし肝心の後一条天皇本人が長元九年(1036年)に突然倒れ、29歳の若さで崩御してしまいました。
譲位の儀式をする前に亡くなってしまったそうですから、急激に容態が悪化したのか。
『栄花物語』では糖尿病のような症状が書かれています。
糖尿病は家族歴があると発症しやすく、祖父・道長(その兄の藤原道隆)も糖尿病に悩んでいた記録が残されていて、遺伝が原因だったのかもしれません。
なんとか遺言は残せたようで、後一条天皇の崩御はいったん隠され、皇太弟・敦良親王への譲位が行われてから発喪となりました。
これによって「存命中に譲位し、その後崩御」という形式になり、上皇としての葬儀が行えるためです。
当時は現職の天皇は土葬、上皇は火葬という慣例があったことも理由かと考えられます。
また、前述の源顕基は「忠臣は二君に仕えず」として比叡山に入って出家し、のちに上醍醐の地で生涯を終えたとか。
子供に先立たれるのもつらいものですが、自分を頼ってくれた年下の主君を喪うのも悲しいでしょうね……。
母・彰子や叔父・頼通の発言力が強すぎたことに加え、本人は若くして崩御。
さらには誕生前の逸話にインパクトがありすぎて、やはり後一条天皇本人がどのような人柄だったのか、どうしてもわかりにくいですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『十訓抄』(→amazon)
『新訳 後拾遺和歌集』(→amazon)
ほか