鎌倉幕府滅亡から、南北朝時代突入の時期を描いたマンガ『逃げ上手の若君』。
主人公・北条時行や敵役・足利尊氏の他にも、個性豊かな人物はたくさんいますが、今回は建武2年(1335年)8月2日が命日となる西園寺公宗(きんむね)に注目したい。
漫画では数話だけの登場ながら、インパクトは抜群。
それもそのはず、このお方、史実では「後醍醐天皇の暗殺計画を建てる」という、非常に大胆な行動をしでかした人だったのです。
貴族社会では、最上級の家に生まれながら、なぜ、そんな破滅的な行為に及んだのか。
計画の成否にかかわらず、御家は潰されなかったのか?
西園寺公宗の生涯を振り返ってみましょう。
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公経の代から幕府との連絡役だった
「西園寺」+「中世」という単語から、鎌倉初期が好きな方にはピンとくるかもしれません。
遡ること約110年前、承久の乱で後鳥羽上皇方が挙兵したときに、捕まった貴族の西園寺公経(きんつね)。
西園寺公宗は、それから六代目の子孫となります。
西園寺公経
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西園寺実氏
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西園寺公相
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西園寺実兼
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西園寺公衡
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西園寺実衡
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西園寺公宗
公経は平家政権下で出世していた上、源頼朝の姪を妻にして、武家との連絡役として「関東申次(かんとうもうしつぎ)」という職を朝廷内で授けられています。
当時の感覚を現代に当てはめると、外交官みたいな感じでしょうか。
そのため公経は幕府の一大事を知ると、「上皇挙兵」の一報を鎌倉に知らせまあすが、上皇方にとっては裏切り同然の行為であり、お咎めを受けたました。
しかし、結果的に幕府軍が勝利したため、乱が後われば公経と西園寺家の家格がドーン!と上昇。
太政大臣も許される家柄となります。
そして時代が降り、迎えたのが公宗の時代というわけです。
後醍醐天皇「両統迭立なんて知らんわ」
貴族の中でも「太政大臣になれる家柄」というのはごくごくわずかの超エリートです。
西園寺公宗の出世も早く、正中元年(1324年)に16歳で参議になると、他の人達をガンガン追い抜き、元徳二年(1330年)には権大納言にまで上り詰めました。
参議と大納言は、両方とも行政機関である太政官のお偉いさんです。
現代でいえば、高校生や大学生が国の政治に直接関わるような感じでしょうか。
嘉暦元年(1326年)に父の西園寺実衡が亡くなったため、関東申次の職も公宗のものになっています。
平穏な時期であれば、公宗も仕事に見合った名誉や収入を得続けることができたでしょう。
しかし、ときの帝である後醍醐天皇は、自分の子孫に皇位を継承させ続けるため、幕府の推していた「両統迭立(りょうとうてつりつ)」を否定したがりました。
以下の図のように、大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)で交互に天皇を出していくという仕組みですね。
両統迭立を否定すると同時に、後醍醐天皇の胸中には、新たな野望も芽生えました。
「幕府ごと潰して、後の政治はワシが主導しよう!」
やる気に満ち溢れていた後醍醐天皇は、さっそく倒幕計画を進めるのですが、立て続けに2度、失敗してしまいます。
一度目のときは関係者とされた公家や僧侶の処罰だけで済みましたが、二度目になると幕府もより厳しい制裁が必要と考え、後醍醐天皇を流罪にしました。
そして幕府は両統迭立の原則に従い、持明院統から光厳天皇を即位させました。
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