鎌倉幕府滅亡から、南北朝時代突入の時期を描いたマンガ『逃げ上手の若君』。
主人公・北条時行や敵役・足利尊氏の他にも、個性豊かな人物はたくさんいますが、今回は建武2年(1335年)8月2日が命日となる西園寺公宗(きんむね)に注目させてください。
漫画では数話だけの登場ながら、インパクトは抜群。
それもそのはず、このお方、史実では「後醍醐天皇の暗殺計画を建てる」という、非常に大胆な行動をしでかした人だったのです。
貴族社会では、最上級の家に生まれながら、なぜ、そんな破滅的な行為に及んだのか。
計画の成否にかかわらず、御家は潰されなかったのか?
西園寺公宗の生涯を振り返ってみましょう。
公経の代から幕府との連絡役だった
「西園寺」+「中世」という単語から、鎌倉初期が好きな方にはピンとくるかもしれません。
遡ること約110年前、承久の乱で後鳥羽上皇方が挙兵したときに、捕まった貴族の西園寺公経(きんつね)。
西園寺公宗は、それから六代目の子孫となります。
西園寺公経
│
西園寺実氏
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西園寺公相
│
西園寺実兼
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西園寺公衡
│
西園寺実衡
│
西園寺公宗

西園寺公経/wikipediaより引用
西園寺公経は平家政権下で出世していた上、源頼朝の姪を妻にして、武家との連絡役として「関東申次(かんとうもうしつぎ)」という職を朝廷内で授けられています。
当時の感覚を現代に当てはめると、外交官みたいな感じでしょうか。
そのため公経は幕府の一大事を知ると、「上皇挙兵」の一報を鎌倉に知らせまあすが、上皇方にとっては裏切り同然の行為であり、お咎めを受けたました。
しかし、結果的に幕府軍が勝利したため、乱が後われば公経と西園寺家の家格がドーン!と上昇。
太政大臣も許される家柄となります。
そして時代が降り、迎えたのが公宗の時代というわけです。
後醍醐天皇「両統迭立なんて知らんわ」
貴族の中でも「太政大臣になれる家柄」というのはごくごくわずかの超エリートです。
西園寺公宗の出世も早く、正中元年(1324年)に16歳で参議になると、他の人達をガンガン追い抜き、元徳二年(1330年)には権大納言にまで上り詰めました。
参議と大納言は、両方とも行政機関である太政官のお偉いさんです。
嘉暦元年(1326年)に父の西園寺実衡が亡くなったため、関東申次の職も公宗のものになっています。
平穏な時期であれば、公宗も仕事に見合った名誉や収入を得続けることができたでしょう。
しかし、ときの帝である後醍醐天皇は、

後醍醐天皇/wikipediaより引用
自分の子孫に皇位を継承させ続けるため、幕府の推していた「両統迭立(りょうとうてつりつ)」を否定したがりました。
以下の図のように、大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)で交互に天皇を出していくという仕組みですね。

両統迭立を否定すると同時に、後醍醐天皇の胸中には、新たな野望も芽生えました。
「幕府ごと潰して、後の政治はワシが主導しよう!」
やる気に満ち溢れていた後醍醐天皇は、さっそく倒幕計画を進めるのですが、立て続けに2度、失敗してしまいます。
一度目のときは関係者とされた公家や僧侶の処罰だけで済みましたが、二度目になると幕府もより厳しい制裁が必要と考え、後醍醐天皇を流罪にしました。
そして幕府は両統迭立の原則に従い、持明院統から光厳天皇を即位させました。
中宮大夫となり外戚の地位を狙う
光厳天皇の即位により、宙ぶらりん状態となってしまった後醍醐天皇の皇子たち。
彼らはとりあえず西園寺公宗の屋敷に身を寄せます。
公宗は倒幕騒動そのものについては深く関わっていなかったようで、以降、彼の名は歴史の表舞台からはしばし姿を消し去りました。
次に出てくるのは、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇が【建武の新政】に取り組み始めた後のことです。

後醍醐天皇図/Wikipediaより引用
そこで公宗は、中宮大夫を任されました。
当時の中宮・珣子内親王(しゅんし/たまこ ないしんのう)が、公宗の父の姉妹の娘、つまり従姉妹だったのです。
おそらくこれは、関東申次の地位を失って困窮が予測されていた公宗への配慮だったのでしょう。
後醍醐天皇は何かと破天荒な人物ですが、代々の中宮については真摯であり、その血縁の公宗には「中宮の母方としての地位で満足してほしい」という思惑があったと考えられます。
後醍醐天皇と珣子内親王の仲は良好だったため、公宗としても「二人の間に皇子が生まれれば、外戚として権力を強められる!」と期待を抱いていたことでしょう。
珣子内親王の前の中宮も西園寺禧子(きし/さちこ)という人で、公宗の親戚でした。
禧子と後醍醐天皇は宮中には珍しい恋愛結婚に近い形だったそうですので、もしかしたら西園寺家の顔立ちが後醍醐天皇の好みにドンピシャだったのかもしれませんね。
禧子が異母姉・昭訓門院瑛子に仕えていたところ、当時皇太子だった後醍醐天皇(尊治親王)に連れ出されたのが始まりといわれています。
その後も仲睦まじかったらしく、出産の際は後醍醐天皇自らが祈祷したという話もあるほど。
それだけに禧子が元弘三年(1333年)10月に崩御すると、後醍醐天皇は深く嘆き悲しんだとされています。
禧子の崩御から珣子内親王の立后まで数ヶ月しか開いていませんが、それは持明院統とのパワーバランスの調整でもありました。
珣子内親王の父・光厳天皇(譲位済み)へ正式に「上皇」の称号が与えられたり、光厳上皇に後醍醐天皇と禧子の娘である懽子内親王が嫁いだり、皇室内で大事にならないよう配慮されていたようです。
博打に出て負けた公宗
後醍醐天皇は、珣子内親王の中に禧子の面影を見つけたのか、夫婦関係は順調でした。
立后の翌々年には皇女に恵まれますが、これは西園寺公宗にとっては悲報となってしまいます。
もしここで皇子が生まれていれば、公宗は皇子を庇護し、後見人として関東申次時代よりも権勢を振るえる可能性があったのですが、皇女ではそれは望めない。
将来的には、持明院統・大覚寺統双方の血を引く天皇が登場することにもなり、歴史的な出来事になるはずでした。
いずれにせよ公宗が望みを保つための選択肢は多くありません。
・後醍醐天皇と珣子内親王の間に再び子供が恵まれる
・皇女を持明院統の皇子に嫁がせて新たな皇子誕生に期待をかける
しかし、現実にそこまで待てませんでした。
公宗は「我が家を再び興隆させるためには、北条氏に味方して幕府を再興させる他ない!」と思い詰め、2つの“賭け”に出ます。
まず1つ目は、最後の執権・北条高時の弟である泰時(時興)を匿ったこと。

北条高時/wikipediaより引用
当時は北条氏の残党狩りが盛んに行われていたので、これだけでもかなりの博打でした。
この辺は漫画『逃げ上手の若君』でも描かれていましたね。泰時は逃げた後いったん出家して還俗し、「時興」と名前を変えていたのですが、現代では泰時のままで扱われることが多いようです。
そしてもう1つの賭けが、後醍醐天皇の暗殺計画でした。
別荘の北山第に後醍醐天皇を招いて殺し、先々代である後伏見法皇の皇子(後の光厳天皇/母が西園寺寧子=公宗のおば)を即位させる――と、サラッと記しましたが、とにかく危険過ぎる賭けでありますね。
で、結果はどうなったのか?
弟の西園寺公重が……
西園寺公宗の賭けは、見事に負けてしまいます。
なぜなら弟の西園寺公重が、この計画を後醍醐天皇側に密告してしまったからです。
なんだか源頼家と比企氏の乱を思い起こしてしまいますね。

源頼家/wikipediaより引用
“謀議は家族がいないとき”にやらないとダメ、絶対。
その結果、建武二年(1335年)夏、公宗と協力者だった日野資名・氏光父子が捕縛されると、公宗は首謀者として出雲への流罪に決まりました。
天皇の暗殺計画がバレて流罪ですから「意外と軽いよね」と思われるでしょうか。
しかし実際は、後醍醐天皇の側近・名和長年により殺されてしまったといいます。

名和長年/wikipediaより引用
享年27。なんでも出立時に“手違い”があったとのことで……。
事件直後、関東では北条時行らが【中先代の乱】を起こしているため、
「公宗は時行や、その庇護者だった諏訪氏と連携して暗殺計画を立てた」
とも指摘されたりしますが、定かではありません。
陰謀に関する書面が正式に残ったりしないので、判断に迷うところですよね。
その後の西園寺家
帝殺しの陰謀――そんな計画が発覚して失敗したのですから、ことは西園寺公宗一人では済まされません。
西園寺家はどうなってしまったのか?
と、ここで頑張ったのが、公宗の妻・日野名子(めいし)でした。
彼女は事件当時、身ごもっていて、夫の死後に息子の西園寺実俊を産んでいます。
公宗が捕まった時点で、西園寺家の家督は一時西園寺公重のものになってしまったのですが、実俊は母に守られて北朝方につき、北山第に住むようになります。
父の陰謀失敗の地に住むというのもなかなかしんどそうですよね。
その話は実俊にどう知らされていたのか……。
さらにその後、西園寺公重が南朝についたため、北朝では「西園寺家の家督は実俊のもの」とみなされます。
そして長じた実俊は順調に出世し、従一位・右大臣まで上り、無事に家を残したのでした。
公家社会では「無能」扱いされていたそうですが、幼い頃に父の薫陶を得られなかったために、作法や学問に疎かったのかもしれません。そう考えるとちょっと可哀相ですね。
西園寺家は、その後も、時折養子を迎えつつ存続し、近代では「最後の元老」として知られる西園寺公望を輩出するにまで至っています。

西園寺公望/Wikipediaより引用
もちろん現代も存続している旧華族の一員。
もしも実俊がもっと早く生まれていたり、追手に捕まったりしていたら、西園寺家は断絶させられていたかもしれませんね。
西園寺公宗や西園寺家の来し方は、武家とは違う戦いぶりをうかがえるような気がします。
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【参考】
鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢 (中公新書)』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ほか





