江戸の出版事業をメインに描く大河ドラマ『べらぼう』で、突如、凄惨なシーンが訪れました。
佐野政言が田沼意知を江戸城内で斬りつけたのです。
あまりの凶行に一瞬言葉を失った方も少なくないでしょう。
二人は初めから、ドラマの中で対照的に描かれてきました。
出自は低くとも見目麗しく、幕府内で出世を重ねていく田沼意知。周囲の誰にでも好かれてしまうプリンスを宮沢氷魚さんが見事に演じていました。
一方、「三河以来」の由緒正しき旗本ながら、父親はボケてしまい、不器用で出世もままならない佐野政言。徐々に心が折れ、追い詰められていく矢本悠馬さんの切ない表情が印象的でした。
二人は幾度かの交錯を経て、一橋治済の陰謀が決定打となり、ついに佐野政言が事を起こしてしまったのです。
ドラマ内だけの話ではなく、実際に起こった史実。
そんな佐野政言の凶行を江戸の民は非難するのではなく、逆に「世直し大明神」として囃し立てました。
殺人事件を起こしておいて一体何事なのか?
なぜそんな状況になってしまったのか。
今ドラマで最も注目されている佐野政言という人物、彼のいた環境を史実面から振り返ってみましょう。
「三河以来」の旗本なれど生活は苦しい
「三河以来」という言葉があります。
家康に古くから仕えた家臣たちを指し、江戸時代においては誇りと共に語られた。
いえ、明治時代になってからも、夏目漱石は「三河以来」の家臣・夏目広次の子孫であることを誇っていたものでした。

三方ヶ原の戦いを描いた『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』歌川芳虎作/wikipediaより引用
佐野政言の家は、この「三河以来」の典型的な譜代旗本です。
五兵衛政之を初代とし、代々江戸城の治安を守る番士を務め、綱吉時代の元禄11年(1698年)からは、番町に屋敷を構えて暮らしてきました。
5代目にあたる政言の父・伝右衛門政豊もまた、番士をつとめあげ、安永2年(1773年)に致仕(引退)。
かわって17歳となる政言が家督500石を継ぎ、文士として順調に出世してゆきます。
知行は500石で、決して裕福とは言えません。
政言の時代ともなると、江戸幕府のシステムそのものにヒビが入っていました。
人口も、農業生産量も、物価も変貌してゆくのに、大名も旗本御家人も知行はほとんど変わらない。
要は収入が上がっていない。
当時は、日本だけでなく東アジア諸国で経済停滞の課題に直面していたのです。
そんな停滞経済に大鉈をふるい、改革を為さんと大抜擢された人物――それが田沼意次でした。

田沼意次/wikipediaより引用
田沼意次という巨星と比べれば、500石の番士なぞ些細な存在に過ぎないようで、そうはならない恐るべき歴史が展開してゆきます。
三河以来ではない田沼が大出世
徳川幕府の初代将軍である徳川家康は、子だくさんでした。
それが2代目の徳川秀忠になると男子は3人のみで、3代目の徳川家光はなかなか男児に恵まれず、スムーズな将軍継承に暗雲が立ち込めてきます。
将軍家そのものが「三河以来」から遠ざかるのが8代目・徳川吉宗の継承でした。

徳川吉宗/wikipediaより引用
紀州藩から将軍として江戸に乗り込んだ吉宗は、側近政治による刷新を行います。従来の重臣を退けてでも、紀州藩以来の信頼できる家臣たちを重用したのです。
田沼家も紀州藩にルーツを持つ家であり、紀州藩士から旗本になった田沼意行の子が、田沼意次でした。
新参者が抜擢されればどうなるか?
三河以来の旗本からすれば、田沼などふざけた連中に見えることでしょう。
家康以来の江戸幕府は、実力よりも血統を重視する政治システムであったところ、吉宗の登場によりヒビが入り始めたのです。
田沼意次の財政改革により、江戸には開明的な空気が流れ始めました。
前述の通り武士の収入は変わらない。
一方、経済の発展によりその他の層では金回りがよくなる。
特に商人たちは裕福になり、武士は相対的に貧しくなる一方です。
もしも商人であれば、生まれた家柄が低くても才覚次第ではメキメキと収入を増やすことができ、そうした蓄えで御家人や旗本の身分を買う者まで出てきます。
かくしてこんな構図が出来上がってゆきます。
血筋はよくとも困窮する武士
vs
成り上がり商人
武士は野暮で貧しい。「食わねど高楊枝」とかなんとか言ってるけど、みっともねェ奴らだ。
そんな風に言われてしまい、封建制度が揺らぎ始めるのです。

もちろん武士の中にも例外はいます。
『べらぼう』の舞台となる出版業へ身を乗り出し、自ら筆を執って自虐ネタでブレイクする狂歌師もいました。
その一例が大田南畝です。
武士出身の作家である南畝が「武士はつれえよ!」と嘆き、それを武士が買い漁り「あるあるだわ~」と納得するような時代になっていたのです。

鳥文斎栄之が描いた大田南畝/wikipediaより引用
一方、そんな武士鬱屈の時代にキラキラと輝いていたのが田沼意次の世継ぎである田沼意知(おきとも)です。
たとえ幕閣で重用されても、一代で終わることも珍しくない江戸期。
頭脳明晰な意次は、時間がかかる政治経済改革を自分の代で完遂できるとは考えていなかったのでしょう。
彼は将軍後継者の決定にもそつなく力を発揮し、かつ、嫡子の田沼意知を掌中の珠として育て上げていました。
意知を譜代大名のみが辿れる程の出世ルートを歩ませ、10代将軍・徳川家治のお供をすることも多いものでした。
三河以来の旗本である佐野も、将軍の供を務めることはよくあります。
しかし、一生懸命勤めても番士でしかない佐野政言に対し、若くして若年寄にまで出世した意知。
上座の席に、高い着物を颯爽と着こなす“新参者”田沼意知の姿が見えたに違いない……となれば、腸が煮えくり返って仕方のない状況だったでしょう。
苦々しい思いは佐野政言だけに限ったものではなく、多くの武士たちにも共通する思いだったはず。
そして事件は天明4年(1784年)3月24日に起きるのでした。
「覚えがあろうッ!」叫んで切りつけた凶行
天明4年(1784年)3月24日、昼過ぎの江戸城――。
若年寄3人が、中の間(40畳)から桔梗の間(36畳)を通り、退出してゆきます。
見送りには、大目付、勘定奉行、作事奉行、普請奉行、小普請奉行、留守居番、町奉行、小普請支配、新番頭、目付など総勢16名。
それだけの大人数がいたにも関わらず、誰も佐野政言の異変に気づきません。
佐野は10畳敷きの新番所に、4人の番士同輩と共に控えていました。そして手にした粟田口一子忠綱作の刀の鞘を払ったのです。
「覚えがあろうッ!」
そう叫びながら、中の間から桔梗の前へ進んでいた田沼意知を、袈裟懸けで切りつけたのです。

田沼意知(左)に斬りかかる佐野政言/国立国会図書館蔵
反撃しようにも江戸城の殿中です。
意知は脇差を抜かず、鞘で受け止め逃れようとしますが、刀を抜いた佐野は止まりません。
「覚えがあろうッ! 覚えがあろうッ!」
そう絶叫し、さらに切り掛かりました。
うつぶせになった意知のとどめを刺そうとしたとき、大目付の松平忠郷が騒ぎに気づき、背後から佐野を組み伏せます。
さらに目付の柳生久通が佐野の手から血に染まった刀を取り上げたとも、松平忠郷がそうしたともされます。
かくして佐野は、囚われの身となったのでした。
江戸城殿中、白昼堂々に若年寄が斬られる惨劇。
三河以来の番士が狂い、斬りつけてくる――そんな予想だにしない凶行は、どうすれば止められたのでしょう。
事件の8日後、切腹して果てる
取り押さえられた佐野政言は蘇鉄の間に押し込められ、町奉行・曲淵景漸に引き渡されました。それから小伝馬町の揚屋に入れられます。
佐野にとって屈辱的なことでした。
この揚屋は、お目見え以下である御家人らの未決囚が入れられる牢なのです。旗本である佐野の身分に合わぬ措置と言えます。
そして取り調べが行われ「乱心」とされました。
斬られた意知は事件の8日後、 天明4年4月2日(1784年5月20日)に没したとされます。享年36。
意知の死が発表された翌4月3日、佐野に切腹が申し渡されました。
乱心といえど、殿中で刀を抜き、若年寄を殺したことがその理由。
享年28。武士としての最期を迎えたのです。

画像はイメージです(歌川国員の作『當世武勇傳 高﨑佐一郎』/wikipediaより引用)
この凶事により、三河以来の旗本佐野家も改易とされました。
遺産は父に譲ることが認められたものの、佐野家の男子は政言であり、彼には子がなかったのです。
幕末に佐野家の再興がなされるかと思われたものの、政治的混乱でその話も消失しています。
政言の遺骸は遺族に引き取られ、神田山徳本寺に葬られるました。
すると思わぬ事態へ発展してゆくのです。
佐野善左衛門は「世直し大明神」
佐野政言の墓ができあがると、次から次へと参拝者が訪れました。
焼香の煙がもうもうと立ち込め、お供えの花は溢れるほどで、賽銭箱には大量の銭が投げ込まれます。
めざとい江戸っ子がこれを見逃すわけもありません。
筵(むしろ)を敷いて、参拝客に花と線香を売り捌く者が現れたかと思えば、境内では飲料水を売る者まで出てきます。
もはや佐野の墓参は、江戸っ子のブーム、ちょっとしたイベントになるのです。
流行に敏感で、何かとはしゃぎたがる江戸っ子にしても、これは一体どういうことなのか。
と思ったら、こんな噂が当時の江戸っ子には広まっていました。
・田沼意知の横死は報いである
・田沼家周辺で、事件の数日前から米が赤く見えた
・田沼意知の葬儀で、田沼家の家紋をまとったものを、鍾馗の姿をしたものが切り付けていた
ただの噂のようで、意図はわかります。
「米が赤い」ということは、不吉なだけでなく、米に対する江戸っ子の思いが透けて見える。
「鍾馗」とは、疫病を祓う神とされます。
こうした噂からは
・米の価格をあげた疫病のように思われている田沼親子の姿
が見えてきます。
さらになんと「佐野善左衛門が腹を切ってから、米の値段が下がり始めたってよ」と、まことしやかに囁かれるようになったのですから、目ざとい江戸っ子が放っておくはずがない。
その結果、
「あの方は人でねえ、神だ、諸人お救いのためにこの世に生まれたにちげぇねぇ!」
「世直し大明神だぁ!」
と崇めるようになったのです。
殺人犯が「世直し大明神」になった瞬間でした。
※皇居の裏手・大妻女子大学の前に「佐野善左衛門宅跡」がございます
止まらぬ物価高騰に、江戸っ子は苦しんでいた
佐野政言の凶行に、人々がスカッとした思いを抱くのも無理はないかもしれません。
当時の江戸には、どんよりとした空気が漂っていました。
・天明2年(1782年)は凶作
・天明3年(1783年)には淺間山が大噴火
こうした災厄に対し、幕府は抜本的な政治改革を行うどころか、田沼時代は飢饉を悪化させかねない経済政策をとってしまいました。

天明2年(1782年)に始まった天明の大飢饉を描いた『天明飢饉之図』/wikipediaより引用
「五穀豊穣」という言葉の通り、日本は複数の穀物を主食としてきました。
時代がくだるにつれ米は別格の人気を博し、江戸幕府では石高を経済の指標とするようにまでなり、その結果、稲作重視の経済政策が進められたのは当然の帰結といえるでしょう。
しかし、同時に大きなリスクもありました。
冷害です。
米は寒さに弱く、他の穀物を米に転換していくと、いざというとき飢饉が起きやすくなる――そうした歪みが当時の江戸にまで到達していたのです。
田沼時代を終わらせかねない佐野の凶行に江戸っ子が喝采を浴びせたのには、そんな閉塞感がありました。
江戸っ子が佐野ブームを盛り上げてゆく
商売上手の文人たちも、佐野政言のブームに飛びつきます。
蔦屋重三郎と親しく、江戸で大人気の戯作者である山東京伝は、意知殺害事件をもととした『時代世話二挺鼓』を書きあげました。
舞台は平安時代、【平将門の乱】を題材にし、斬首される平将門を意知。
その平定者である藤原秀郷を佐野に見立てたのです。

山東京伝/wikipediaより引用
なぜ佐野政言は田沼意知に斬りかかったのか?
幕府の公式見解は「乱心」ですが、誰もそんなこと信じておらず、現在まで動機は確定されていません。
「斬奸状(ざんかんじょう・奸悪な相手を切り付ける動機を記す書状)」の『佐野善左衛門宿所へ差し置き十七ヶ条』には、以下のような動機が記されております。
田沼意次こそ罪があるけれども、将軍の寵臣を殺すには障りがある。
だから代わりに子を狙ったのだ――。
それを読んでなお「こんな理由で、殿中で切り付けるものだろうか?」となれば、「乱心」に落ち着くわけで、大河ドラマ『べらぼう』ではどのように描かれるか。楽しみですね。
劇中でどこまで取り上げられるか不明ながら、私怨として以下のような理由が流布しています。
◆系図や家紋を盗まれた
血筋では佐野のほうが田沼より上。
だからでしょうか、田沼意次は捏造を思いつく。先祖を辿ると藤姓足利氏流佐野家にたどり着ける系図を借りて返さず、粉飾に使ったというのです。
さらには七曜紋も、本来は佐野家伝来のものであったのに、田沼家が騙して盗んだとするものすらあります。
◆大明神の祟り
佐野家の領地にある佐野大明神を田沼が乗っ取り、田沼大明神にしてしまった。
◆賄賂を送ったのに出世できない
本来、田沼は佐野の家来筋。その縁もあり、佐野は田沼に贈賄までして出世したいと頼み込んだのに、断られてしまったというものです。
こうした動機は偽書に記されたものとして、信憑性は低い。
江戸時代は、明智光秀が織田信長を討った動機としても、さまざまな私怨が考え出されたものです。
辛いことがあれば、つい乱心してしまうよなァ……といった同情を感じさせます。
系図盗難説からは、佐野が田沼に嫉妬することは当然だと思われていたこともうかがえました。
蘭学者たちも佐野乱心説を信じていなかった
そんな江戸っ子に対し、田沼意次と親しい蘭学者は別の動機を語り合っていました。
田沼政治は先進的すぎる。
保守的で、血筋ばかりを語る幕閣に理解できるとも思えない。
意次よりも若い意知を殺すことで、その流れを止めようとした。
佐野は誰かに焚き付けられたのだろう。
確かに田沼政治に反発する者は少なくなかったことでしょう。
しかし、暗殺できるほど接近できるとなれば、実行犯になれる者は絞られます。
よりにもよってそれを番士が狙ったものだからこそ、この暗殺は成功した――そんな謀略説だと語りあい、彼らは悲観しました。
日本を変える改革は頓挫し、これからは暗い時代になると嘆いたのです。
そしてそれは現実のものとなります。
田沼時代の終焉と共に、蘭学者受難の時代が到来。
改革を嫌い、質素倹約を声高に掲げる松平定信の時代は、江戸っ子から娯楽を奪い、彼らを苦しめることになりました。

松平定信/wikipediaより引用
そこまで考えると、佐野は大明神どころか、災厄の先触れのようにも思える。
そしてその災厄と対峙する江戸の人々の姿こそ、『べらぼう』が描いていくものなのでしょう。
テロリストを美化することの是非
重大なルール違反を犯し、罪のない田沼意知を突如殺害した佐野政言。
そんなテロリストが「世直し大明神」と呼ばれ、死後、参拝者が絶えない状況になるとは何事なのか?
しかも、現実に世直しなどは起きず、結局は松平定信の圧政により自分たちが苦しめられることになる……不幸に便乗して儲けようとした版元も、戯作者も、あまりに下劣じゃないか!
理不尽さに不快感がこみ上げてもおかしくない状況は、現代社会にも通じる病理があるように思えてきませんか?
人間はテロリストを礼賛するものである――。
そう言われたら、そんなバカな!と即座に否定したくなるでしょう。
しかし、歴史にはそうした先例がいくつもあります。
『史記』「刺客列伝」に名を連ねる、始皇帝の命を狙った荊軻(けいか)はその典型といえます。
今に至るまで彼をモチーフとした作品は作り続けられています。
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あるいはフランス革命の最中、マラーを暗殺したシャルロット・コルデーもそうでしょう。
病気で重篤な症状が出て先は長くない。かつ人情も備え、人気者であったマラーを殺すことには、さしたる意義など見出せない。
それでも裁判で見せた、可憐な穢れなきシャルロット・コルデーの姿は、人びとの心を掴みました。
斬首された彼女の首を叩いた男は、盛大なブーイングを浴びたほどでした。
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日本史にもその例は見られます。
世界的に見れば、逆恨みで老人を寄ってたかって殺すクレイジーな『忠臣蔵』。
あれも「徳川綱吉の政治に対する不満」という世論を読み解かねば、喝采を受ける理由はわかりにくいものです。
そのためか、かつては絶大な人気を誇った作品ながら、今ではすっかり忘れられているとすら言われてしまいます。
たとえ映画化されるにせよ、相当ヒネッた展開にされるのは、史実に則した展開のままでは観客が納得できないからでしょう。
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幕末から明治にかけ、日本では政治家暗殺が熱狂的なまでに流行しました。
そもそも明治維新が軍事クーデターです。政治家の多くが志士出身であるからには、暗殺を恐れることは臆病だという意識すらありました。
伊藤博文が安重根に暗殺されたときの、日本人の反応も驚くべきものでした。
志士らしい死に方だ。因果応報かもしれぬ。相手にもそれ相応の理由はある、義士である――当時はそんな意見が噴出したのです。
日本人が「テロリストを美化するな」と言う際には、歴史を振り返る必要があるでしょう。
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そしてついに佐野政言も表舞台に登場。
大河ドラマで扱われることにより、この不可解な一例である「世直し大明神」も有名となるはずです。
被害者である田沼意知を叩いて喜ぶ江戸の民。
加害者を崇める江戸の民。
そのとき視聴者たちは何を思うのでしょうか。
今も変わらないと困惑するのか、人類の普遍性を見出してしまうのか。
歴史を学ぶ意義とは、面白さを味わうだけでなく、人類の嫌な側面を見て苦さを噛み締めることにもあると思えます。
『べらぼう』に阿鼻叫喚をもたらす、大明神の姿を心して待ちましょう。
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【参考文献】
藤田覚『ミネルヴァ日本評伝選 田沼意次』(→amazon)
他









