応永二十四年(1417年)1月10日は【上杉禅秀の乱】を起こした上杉禅秀(上杉氏憲)が自害に追い込まれた日です。
応仁の乱が1467年に始まっていますので、その50年前ということになりますね。
鎌倉幕府の打倒に続いて【観応の擾乱】が起きるなど、始めから何かとドタバタしていた室町時代は、その後、南北朝問題が片付いても関東では断続的に戦が勃発し、そのまま戦国時代へ突入するような様相を呈していました。
なぜ関東ではそのような混乱が続いたのか?
応永二十三年(1416年)10月、足利持氏を討とうとして失敗に終わった【上杉禅秀の乱】を振り返ってみましょう。
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鎌倉公方と関東管領
まずは当時の関東にあったお役所から確認して参りましょう。
室町幕府は関東を統治するため「鎌倉府」という機関を設置。
トップは「鎌倉公方」と呼ばれ、足利尊氏の四男・足利基氏の直系による世襲となっていました。
鎌倉公方を補佐するのが「関東管領」で、こちらは基氏の補佐を務めていた上杉氏が世襲するようになります。
上杉氏はいくつかの支流に分かれますが、今回の主役である上杉禅秀(俗名:上杉氏憲)はその中の一つ「犬懸上杉家」という家柄の人です。
ちなみにこの乱のせいで犬懸上杉家は没落し、その後、扇谷上杉家と山内上杉家が台頭。
後に両方とも斃れ、さらに分家の長尾家から長尾景虎こと上杉謙信を迎えることになります。
子孫が多かったからこそできたことですが、その謙信が実子を作らなかった&後継者を指名しなかったのはなんとも皮肉な話ですね。
代々の歴史を知った謙信が「どうせ身内を増やしても争うんだから実子なぞいらん」と思ったのかもしれません。
足利持氏と上杉禅秀
当時の鎌倉公方は、四代目の足利持氏でした。
持氏が幼い頃は、山内上杉家の上杉憲定が守役を務めていたのですが、持氏が元服した翌年に憲定は職を辞し、犬懸上杉家の上杉禅秀が関東管領を務めることになりました。
それまで禅秀は何をしていたのか?
少ないながら、以下の記録が残されています。
◆応永九年(1402年)に陸奥の伊達政宗(独眼竜ではないほうの政宗)討伐に参加
◆応永十六年(1409年)に持氏の父で三代鎌倉公方・足利満兼の御所移転の際に総奉行を務めた
ド派手なタイプではないけれど、重要な立ち位置にいたという感じでしょうか。
禅秀はなかなか厳しい人だったようで、持氏に容赦なく諫言します。
一方、禅秀をうるさがった持氏は応永二十二年(1415年)、禅秀の家人・小幡六郎にいちゃもんをつけて領地を没収するという手段に出ます。やることがセコい!
禅秀は当然、この件でも持氏を諌めましたが、持氏は逆恨みするばかり。
そんなことが何回も続けば、どんな人だってイヤになるものですよね。
「どうにもならない」あるいは「やってられない」と判断した禅秀が辞職を申し出ると、持氏は「俺への当てつけか!」とさらに怒る始末。
何をしても怒るめんどくさい恋人みたいですが……結局、禅秀の望みは叶い、関東管領の職は山内上杉家の上杉憲基が引き継ぐことになりました。
山内上杉家と犬懸上杉家の関係は良くありません。同族なんだから仲良くしろとツッコミたいところですが、子孫が多すぎるとだいたいこうなりますよね。
上役の足利氏からしてそうですし。
持氏への反感を抱く人々
トップ二人がこんな調子ですから、他の人も足利持氏に対して反感を抱き始めます。
その中にいたのが持氏の叔父・足利満隆でした。
彼はかつて持氏への謀反を疑われたこともあり、そのときは持氏の弟・持仲を満隆の養子に迎えることでなんとか収めたという経緯があります。
上杉禅秀と足利満隆は「このまま持氏を鎌倉公方にしておいては、鎌倉府の統治がめちゃくちゃになってしまう」と危惧し、持氏をどうにか排除しようと計画。
その後は持仲を鎌倉公方にし、満隆が後見する予定だったようです。
彼らは謀議の末、
「京都にいる四代将軍・足利義持から持氏と憲基への討伐命令が出た」
として兵を集めることにしました。
呼び掛けに応じた人々は、ザッと以下の通りです。
◆犬懸上杉一門
◆禅秀の姻戚関係:岩松満純・那須資之・千葉兼胤・武田信満
◆常陸・下野・上野・武蔵・相模・陸奥・信濃・伊豆の諸氏
◆鎌倉府の吏僚:二階堂氏・佐々木氏
その他にも中小国人や豪族などもいたそうですので、禅秀たちは「当時の体制に不満を有する広範な武士たち」全員を味方につけたということになります。
いっそ「持氏方についた人」を数えたほうが少なくて楽なぐらい。
他に、足利義持の弟・足利義嗣も禅秀に味方したとされています。
彼は別行動だったので、義嗣の動きについてはまた後ほど触れますね。
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