上杉禅秀の乱

源平・鎌倉・室町

上杉禅秀の乱で関東に何が起こった?犬懸上杉家は没落 波乱の元凶・持氏は生き残る

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乱の勃発

上杉禅秀は人数を整えると、応永二十二年(1415年)から自分の屋敷へ武具を運び込ませました。

実は禅秀の屋敷と持氏の御所はさほど離れていないのですが、持氏や周囲の人々はその動きに全く気づいていなかったようです。

似たような例として鎌倉時代和田合戦がありますが、このときは狙われた側の北条義時は落ち着いて対処していましたので、器量の差がうかがえますね。

心ある人が何度も報告して、ようやく持氏は事の重大さに気づいて慌てて脱出。

憲基も似たような感じで油断しきっていましたが、報告を受けて持氏を自邸に迎え、今後のことを話し合いました。

そうとは知らない禅秀たちは、応永二十三年(1416年)10月2日に持氏の御所を襲撃します。

当然、首尾はよろしくありません。

代わりに憲基邸を攻撃する案も出ましたが、足利満隆に止められたため鎌倉市中への放火が行われました。

そうこうしているうちに双方へ援軍が着き、同年10月6日早朝、由比ヶ浜を主戦場とした鎌倉全域で本格的に戦闘が始まるのです。

由比ヶ浜

一般人も巻き込まれたはずですが、それについては記録が乏しく判然としません。

戦闘は、禅秀方の有利で進み、憲基らは持氏を逃がすために血路を開きました。

途中で上杉氏定が重傷を負い、持氏と別れて藤沢の道場で切腹したといいます。どんな主君にでも忠臣はいるのが泣けてきますね。

憲基は持氏を西へ逃がし、自分は越後へ落ち延びました。

持氏が駆け込んだ先は駿河の今川範政です。

今川氏は扇谷上杉氏と親族かつ縁戚でもあり、鎌倉公方との関係が深かった。

当然、今川でもこの乱については情報を入れており、敗色濃厚であることも見えていたため、別案を提案します。

「かくなる上は将軍様に訴えましょう」

持氏がこれを了承すると、今川から幕府へ、禅秀の乱について報告する使者が立てられました。

これに対し、将軍・足利義持は、禅秀らを討つよう命じる御教書(命令書)を出します。

入れ違いで「すでに持氏と憲基らは切腹した」という誤報も届いたようで、将軍・足利義持は動揺しながらも、怒り狂っていたとか。

他にも京都には事実とは異なる情報が複数伝わっていたらしく、『看聞日記(伏見宮貞成親王の日記)』などに混乱ぶりがうかがえます。

その中には「禅秀が持氏の母と密通した」という、下世話過ぎるものもあったようです。

いつの時代もすぐ色恋沙汰をねじこもうとする人がいるものですね。

 


禅秀に呼応して兵を挙げようとした?

上方でもう一つ見過ごせなかったのが、このタイミングで義持の弟・足利義嗣が突如京都を脱出し、高雄山(京都市右京区梅ヶ畑高雄町)へ隠棲したことでした。

この動きがタイミング良すぎたため、「禅秀に呼応して兵を挙げようとした」と見なされてしまいます。

結果、義嗣は仁和寺、継いで林光院に移された後、暗殺されてしまいました。

しかも義嗣の近臣も複数人討たれる始末です。

異母弟の足利義嗣/Wikipediaより引用

それだけではありません。

暗殺を実行した富樫満成も、その後「義嗣へ謀反をそそのかした」だの「義嗣の愛妾と密通した」だのという口実で高野山へ逃げたところを討たれるという、散々な結末になってしまうのです。

これにより満成が守護を務めていた加賀の南半分が兄・満春のものになっており、満春は天寿を全う。

幕府に関東からの連絡が届いていたということは、義嗣にも何かしらの連絡が来ていた可能性もなきにしもあらずですが……。

父の足利義満が義嗣を異様に厚遇していたこと、それを引きずっていた幕臣がいたことから、義持が「いずれ機を見て始末しよう」と思っていたところに、ちょうどよく義嗣が墓穴を掘ったので利用したという感じですかね。

いやー、怖い。

足利義持/wikipediaより引用

話を関東に戻しましょう。

将軍の御教書が出た時点で、禅秀は幕府の敵とみなされました。

「錦の御旗」ほどではないものの、こうなると武士の多くが禅秀の味方ではいられなくなります。特に武蔵の国人たちが一気に離反したため、禅秀たちは持氏の前にそちらを破ろうと試みました。

しかしこれに失敗すると、禅秀らは一気に追い詰められていきます。

また、義持から下野の宇都宮持綱へ「持氏を援護するように」という命令が下っていたり、今川範政によって持氏方につくよう呼びかけられたりもしていました。

禅秀方の知らないところで、背後でも持氏方が増やされていたのです。

これらの動きに対し、禅秀方も応戦しようとしたものの、御教書と持氏を掲げた今川軍が応永二十三年(1416年)の末に鎌倉を目指して出陣。

両軍は入間川などで戦い、禅秀方は敗北が続きました。

そして翌応永二十四年(1417年)1月、越後へ落ちていた上杉憲基も上野経由で鎌倉へ向かい、同じ頃に持氏と今川軍も鎌倉へ侵攻。

事ここに至って敗北必至と悟った禅秀と一族郎党は、1月10日に鎌倉・雪ノ下の屋敷に籠もり切腹し、この乱は幕を下ろします。

戦ではよくあることですが、「鎌倉で一族揃って切腹」というのは、どうにも鎌倉幕府滅亡時の北条氏を彷彿とさせますね。

 


乱後の影響

足利持氏は鎌倉公方、憲基は関東管領に復帰し、禅秀方だった武士を処断していきました。

だが持氏の横暴は変わらず、将軍・義持との不和もそのままで、根本的な解決どころか事態は悪化していきます。

甲斐の守護・武田信光を自害に追いやり、幕府の直臣扱いだった常陸の山入与義も自害させて幕府から睨まれ、上総の一揆を鎮めたはいいもののよその人を守護にして混乱を招く……といった様相です。

そして【永享の乱】が起き、そこから【享徳の乱】が勃発し、関東はそのまま戦国時代へ突入していくことになるわけです。

“たられば”の話になってしまいますが、もしも鎌倉府がまともに機能し続けていれば、応仁の乱で東西どちらかにつき、大きく形勢を替えたかもしれません。

架空戦記で読んでみたいような流れですね。


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長月 七紀・記

【参考】
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon
渡邊大門『戦乱と政変の室町時代』(→amazon
国史大辞典
日本国語大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典

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