織田信長と豊臣秀吉(木下藤吉郎)は一体どんな風に出会ったのか?
史実はどうなっていたのか?
天下人の二人だけに、戦国時代の基本事項だと思われるかもしれませんが、実際に答えられる人は皆無でしょう。
なぜなら、その手の話は物語や講談でのみ伝えられてきたものだから。
公的な文書や寺社の記録、あるいは公家の日記などで「信長と秀吉の出会い」なんて項目、あるわけないんですよね。
しかし、それでも気になってしまいませんか?
二人が生きた時代から江戸時代以降にかけて記されてきた
『甫庵太閤記』
『絵本太閤記』
『名将言行録』
『信長公記』
の4冊では一体どんな風に描かれているか?
早速、確認してみましょう!

織田信長と豊臣秀吉/wikipediaより引用
甫庵太閤記
江戸初期に小瀬甫庵が記した『甫庵太閤記』。
同書では、永禄元年(1558年)9月、清州城にいる織田信長のもとへ秀吉が直訴したことになっています。

清州城
「私の父・竹阿弥は織田大和守(※)に仕えていましたが、家が貧しくなってしまい、私は微小の身としてほうぼうでこき使われてきました。
願わくば殿に直接仕えたいと存じます」
(※)織田大和守=おそらく清洲城主・織田信友のこと。織田信長の家(弾正忠家)の主筋。
これに対し信長はどう答えたか?
「面構えは猿に似ていて心は軽そうだが、気のいい奴だろう」
いかにもフィクションの織田信長が好みそうな言い回しと言いましょうか。
好感を抱いたようですんなり召し抱え、竹阿弥の子だからという理由で秀吉を「小竹」と呼ぶことにしました。
生まれたばかりの次男(織田信雄)の髪が長めだったから「茶筅丸」と名付けるなど、信長のネーミングセンスからすると「小柄だから」という理由で”小”をつけたのかもしれませんね。

若き頃の秀吉を描いた月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikipediaより引用
その後、秀吉は信長のそばにまめまめしく仕え、信長が外出の際などに
「誰かいるか」
と呼んだときには真っ先に応えたとか。
そのうち信長から直接秀吉へ用を申し付けるようになり、出世の糸口を掴んだということになっています。
気が利く人が頼られるようになっていくのは割とリアリティのある話でしょう。
信長は良い働きをする部下には褒美をケチらないタイプですので、秀吉のように出世第一!で頑張りたい人にとっては、相性の良い上司だったことでしょう。
絵本太閤記
殿! この寒さゆえ、殿の草履を懐で温めておきました――。
という有名なエピソードが初めて出てくるのが、この『絵本太閤記』です。
寛政九年(1797年)が初編なので信憑性はほとんどゼロですが、むしろ、このやりとりを考えた著者(武内確斎)の才能に感服してしまいますね。
そんな同書で二人はどんな出会いだったか?
というと、永禄元年(1558年)9月1日に信長が鷹狩りにでたとき、秀吉が願いでて信長の草履取りとして仕え始めたとしています。
そのころ信長はとある女性のもとへ通っていて、夜頻繁に外出していたとし、秀吉は草履取りの頭(かしら)に
「私はまだ学ぶべきことが多いので、毎日殿のお供をさせていただきたい」
と願い出て許可を取ったといいます。
信長はそのことに気づき、
「もしや古参の者どもが仕事を押し付けて楽をしているのでは」
と怪しんだそうですが、草履取りの頭が経緯を説明すると納得したのだとか。
「事前に話を通しておく」って大事ですよね。
草履を温めた話については、懐ではなく背中に入れていたということになっています。
なぜ体の前面と背面が入れ替わったのかはよくわかりませんが、信長がこの件で秀吉を評価し、草履取りの頭にしてやったため、秀吉は出世の糸口を掴んだという流れです。

イラスト・富永商太
また、秀吉はさらなる出世のため、草履取りの頭になった後も一工夫した事になっています。
毎晩のお供を続けただけでなく、部下を室内で待たせて自分は屋外の警戒をするようにしたのだとか。
これがまた信長に感心されたとされています。
では次に『名将言行録』を見てみましょう!
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