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【信長と秀吉の出会い】
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名将言行録
江戸後期から明治にかけて記された『名将言行録』。
信憑性はともかく、こちらも非常に面白いエピソードが数多く収められており、信長と秀吉の出会いとなれば期待も膨らむところなんですが。
秀吉は今川家に仕えていたが、ここでは出世できないと見切りをつけて辞めた。
そして永禄元年(1558年)9月1日、信長の行列に声をかけて召し抱えられた。
描写はわずかこれだけで、出会いのシーンは非常に淡白でした。

絵・富永商太
その後、草履取りとして仕え、
・信長のお忍びに毎日付き従った
・草履を背中で温めた
といった描写は『絵本太閤記』と同じです。
『名将言行録』では、その後、農家から「火縄」の徴収を任され、出世の糸口を掴んだことになっています。
火縄とは、火縄銃で火種をつけておく点火用の紐ですね。
長い時間、火が着いたままの状態でいさせるため、木綿や竹などの繊維で編んだ紐を硝酸カリウムに漬け、乾燥させて作っていました。
材料が材料なだけに農家の税として製作義務も課されていて、秀吉はその回収を任されたのです。
足りない分は金銭などで補う事になっていたので「秀吉はその分をちょろまかして馬や従者を手に入れ、一隊を率いて信長の戦に参戦した」ということになっているのがなんとも……。
「税金をちょろまかして軍備を整え、信長に気に入られた」ってことですね。これはさすがに可哀想な気がします。
信長公記には?
織田信長の生涯を記し、秀吉や光秀などの動向を確認するのにも欠かせない『信長公記』。
太田牛一が膨大なメモを元に編纂した書物であり、信頼性は高いだけに期待したいところです……と、残念ながら、ここには二人の出会いのシーンは書かれていません。
光秀もほとんど書かれていないので、扱いは平等と言えます。

明智光秀/wikipediaより引用
他家から寝返ってきた人や降伏した人については、戦の経過と共に書かれているんですけどね。
『信長公記』は信長を称えるための本であり、織田家臣団の記録ではないので仕方ないのでしょう。
なお『信長公記』における秀吉(当時は木下藤吉郎)の初登場は、永禄十一年(1568年)の箕作城(みつくりじょう/現・滋賀県東近江市)攻めへの参戦です。
信長が足利義昭を上洛させるために行った、いわゆる”上洛戦”の前哨戦でした。
秀吉が永禄元年に草履取りとして仕え始めていたとしたら、10年経ってからの参戦となりますね。
もちろん、これ以前に一兵卒として参戦していた可能性はあります。
まとめ
秀吉はいつから信長に仕え、どのように出世していったたのか?
この基本事項について、多くの書物で以下の点が共通しています。
・秀吉は永禄元年(1558年)に信長に仕え始め
・まずは側近くに仕える小者から出世した
・それが可能だったのは、秀吉が人並外れてまめまめしく働いたからだ
草履の話が本当だったら一番面白いんですけどね。
仮にその話が100%無かったとしても、それ以外のあらゆる場面で秀吉が尋常ならざる「気遣いがデキる人」だったのは間違いないでしょう。
気難しい殿様を機嫌よく出来るとすれば、それはもう間違いなく才能(と努力)でしょう。
出仕時期について共通しているのも注目ポイントかと思われます。
秀吉は天文五年か六年(1536年か1537年)生まれとされていますので、永禄元年時点で23~4歳。
当時の基準で成人とみなされる時期から7~8年経ったあたりという点にリアリティはあります。
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長月 七紀・記
【参考】
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
『新訳太閤記 巻一 (史学社文庫)』(→amazon)
『名将言行録 現代語訳 (講談社学術文庫) 』(→amazon)
『[新訳]名将言行録 大乱世を生き抜いた192人のサムライたち』(→amazon)
ほか