53年6月9日は、ローマ帝国きっての暴君ネロが、最初の妻であるオクタウィアと結婚した日。
それだけでなく9年後の記念日にオクタウィアが処刑された日。
さらにその6年後は、ネロが自ら命を絶った日となっています。
◆53年6月9日 ローマ皇帝ネロがオクタウィアと結婚
◆62年6月9日 オクタウィア処刑
◆68年6月9日 ネロ自殺
当コーナーでも何度か「年違いで同日の出来事」を取り扱ってきましたが、一人の人物が三度に渡って関わってくるのは珍しいケースです。
早速、暴君ネロについて見ていきましょう。
暴君になるべくしてなったネロ
ネロといえば
「暴君」
「殺人狂」
「アホ過ぎて言葉にできない」
などなど、全く良い評価がない稀有な人物です。
が、その人格が形成されるまでには同情の余地があり、母親アグリッピナの過剰な期待・その他諸々の影響があるといわれています。
アグリッピナも若い頃に自分の母親が流罪・処刑にされたりして、決して幸福な生い立ちではないんですけどね。
なにがまずかったのかというと、アグリッピナがいつまでもネロを子ども扱いし続けたことです。
彼女はネロの前の皇帝・クラウディウスの奥さんで、その頃から政治や軍事に口を出していました。
一応役には立っていたようですが、この地位をネロの代になっても保とうとしてかえって息子の反感を買い、処刑されてしまったのです。
トメ(姑)の干渉が強すぎて 妻処刑
母親との関係がこんなんですから、当然女性との付き合いにはナーバスになります。
しかもオクタウィアはクラウディウスの娘でした。
アグリッピナの前の奥さんの子供です。
要するに母親が息子を使って自分の権力を保つために、ネロへ押し付けた結婚だったのです。
さらにオクタウィアはなかなか子供ができない体質だったらしく、これもまたネロの不満をあおりました。
こんな悪条件が重なっては、当然夫婦仲が円満に行くはずもありません。
ついに我慢ならなくなったネロは、「お前は浮気をしているけしからん女だ!」とオクタウィアに言いがかりをつけ、彼女を幽閉の後処刑してしまいました。
この処刑の方法がエグいどころじゃない残酷さ。
とてもここでは書けないほどです。
ネロに残酷なイメージがつきまとうのは、処刑した人物の多さだけでなくそのやり方が異常としか写らないからなのでしょうね。
DVのせいで死んだ説あり 毒殺説あり
妻を処刑したネロは、その年の内にポッパエアという女性と再婚します。
この女性もまた野心家でしたが、娘を産んだことで比較的夫婦仲は良好でした。あくまでオクタウィアと比べれば、ですが。
というのもポッパエアの死については記録がバラバラすぎて、ホントに愛してたのかどうかが全くわからないからです。
DVのせいで死んだ説あり、毒殺説あり。
はたまたネロが葬儀で号泣した=殺していない説あり、と全く一貫性がありません。
古代史ってこういうところがもどかしいですよね。
とはいえネロはもともと頭の悪い人ではありません。
即位して5年ほどは名君といわれていましたし、上記のような残虐な仕打ちの合間にも善政に類することをしています。
しかし家庭教師・側近だった哲学者セネカの殺害や、ローマで起きた大火災の犯人としてキリスト教徒を迫害したことで少しずつ不満が肥大化してしまいます。
最後は自殺に追いやられる
そしてあるとき、ちょっとしたきっかけで市民と元老院(今でいう内閣みたいなもの)の反感を爆発させてしまい、クーデターを起こされて自決に至りました。
享年30。
そしてそれが6月9日でした。
この時代、皇帝は市民と元老院の信任があってこその地位だったので、信頼を失ってしまったら玉座に座り続けることはできなかったのです。
こうしてネロの治世は彼の命と共に終わりましたが、その墓には多くの花や供え物が手向けられたといわれています。
また、あまり良くない死に方をした割には後の皇帝にきちんと葬儀をしてもらったり、神格化されたりと扱いは悪くありません。
当時の人々は単なる暴君というより、
「たまに暴走するけど良い皇帝」
と見ていたんでしょうかね?
母親一人に罪を着せるのもどうかとは思いますが、もしアグリッピナが孟子の母親と同じくらい謙虚な女性だったとしたら、ネロは稀代の名君として称えられていたのかもしれません。
親が口を出しすぎるとかえって子供に悪影響を及ぼすという好例……ですかね。
長月 七紀・記
【参考】
『図説 ラルース世界史人物百科〈1〉古代‐中世-アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』(→amazon)
ネロ/wikipedia
クラウディア・オクタウィア/wikipedia