1885年6月9日は、天津条約が結ばれ清仏戦争が集結した日です。
清が西洋と行った戦争――。
というとイギリス相手のアヘン戦争を思い浮かべますが、実はフランスともやりあっていました。
しかし、そのきっかけは中国ではなく、隣国ベトナムでした。
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ベトナムを植民地とすべく宣教師を派遣していたフランス
フランスはベトナムを植民地にするため、カトリックの宣教師を送り込んでいました。
カトリックに改宗したベトナム人も少なからずいたのですが、政府や皇帝は宣教師たちを胡散臭く思って嫌がります。
大航海時代に同じ手でアジア諸国がやられていますから、警戒するのも当然のことですよね。
その後しばらくフランスは、アヘン戦争やアロー戦争によってイギリスと共に清(中国)に手を出していたので、ベトナムへのちょっかいを一時取りやめました。
その辺が一段落した後、今度はスペインと共にベトナムをつつき始めます。
ベトナムの結束は強固で、三年かかってもフランス・スペイン軍は勝てません。
最終的にはフランスが勝ったものの、戦死者を1,000人出しています。
もしかすると、このせいでフランスはベトナム獲得に躍起になってしまったのかもしれません。
アジアに広い版図を持ったフランスは、ベトナム―中国間の道を整備して、経済を潤そうと考えました。
しかし、中国南部の軍閥・黒旗軍が高額な通行料を要求したため、計画は頓挫。
さらにフランス海軍士官アンリ・リビエールがハノイで現地調査の途中、独断で砦を占領するという荒業に出ました。
さほど経たないうちに砦はベトナムに返されたのですが、こんなことをされて「はいそうですか」となるわけもなく、きな臭い空気が続きます。
宗主国・清に救援を求めるも……
既に兵力を消耗していたベトナム。
単独で仏国には立ち向かえず、宗主国の清に救援を求めます。
清も既にボロボロですが、黒旗軍が代わりに対応します。
黒旗軍と清政府は敵対していたものの、清としても宗主国ですから、属国のピンチに「ウチもう力がないから無理」とはいえず、黒旗軍に武器や資金を援助したのです。
日本史で例えるとすれば、元寇のときの日本側が「幕府軍」と言いつつ、実態は九州の御家人が中心だった……というのと似てますかね。難しいですね。
1882年には清からも兵が派遣され、ベトナム各地に駐屯するようになります。
一応、清に滞在していたフランス公使は清と協定を結び、平和的に解決しようとしました。もう一方の当事者であるベトナムに無断だったのはいただけないところですが。
しかしフランス軍の方では「公使のヤロー軟弱すぎw」(超訳)としか思わず、1883年から進撃を再開。
連戦連勝を重ねるうち、フランス本国でも「公使はすっこんでろ! 軍はそのまま突き進め!!」(※イメージです)というスタンスの新政権ができてしまったため、講和とはなりません。
清軍は黒旗軍を説得して協力してもらい、一時的にフランス軍を撃退しました。
が、フランスから援軍が派遣されると簡単には済ませられなくなってしまいます。
しかも、フランスの援軍が来たあたりでベトナムの皇帝が崩御してしまったため、ベトナム軍は大混乱に陥り、降伏せざるを得ない状況となるのでした。
「フランスがアジアの弱小国に苦戦してるw」
このときの戦いでは黒旗軍が粘り、フランス軍もただでは済みませんでした。
ヨーロッパにも伝わり、
「フランスがアジアの弱小国に苦戦してるんだってさwww」(超訳)
という悪評が広まってしまいます。フランス政府はこれに焦り、指揮官を交代させました。
黒旗軍も川の氾濫によって陣地を替えざるを得なくなります。
ここでフランスは、再び清との単独講和を検討しました。
が、またも頓挫。清でも攘夷運動が強くなり、広州などの開港地でフランスを含めたヨーロッパ商人への襲撃事件が多発します。
この状況では清も軍を退けませんし、西洋諸国は自国民保護のため軍艦を派遣せざるをえません。つまり、講和とは程遠い空気になってしまったわけです。
こうしてフランスは清との全面対決を視野に入れ、根回しを始めました。
一つのターニングポイントなったのが、ハノイの西で起きた【ソンタイ川の戦い】です。
この戦いでは、清軍やベトナム軍もいたのですが、主力は黒旗軍だったため、黒旗軍vsフランス軍という構図。
結果、フランス軍の一部がハノイへ進撃し、黒旗軍は後方へ撤退することになります。
双方多くの損害を出し、黒旗軍は、積極的に参戦しなかった清軍やベトナム軍に腹を立てました。
黒旗軍3,000に清軍・ベトナム軍が加われば、数の上では有利になるはずだったからです。
このため黒旗軍のトップがへそを曲げてしまい、以降戦いを避けるようになります。
ってそりゃ、当たり前ですよね。
せっかく援軍として来たのに、肝心の地元軍がロクに働かないのでは、やる気など出るワケがありません。
ベトナムは、せっかくの味方を自分で減らしてしまったことになってしまうのでした。
アヘン戦争と同じく木っ端微塵にされた清の海軍
1884年、フランス軍は総司令官などの指揮官を入れ替え、攻撃を再開。
応戦に当たった清軍は、兵力がフランス軍の倍だったにもかかわらず、士気は低く、すぐ撤退してしまいます。
本来でしたら、1884年5月に一度、清軍の撤退やフランス軍のベトナム駐屯などを盛り込んだ停戦協定が結ばれるはずでした。
しかし、清軍の撤退がいつなのか明確でなかったことから、再び揉めて戦うことになります。
ここからが清仏戦争の本番とみなされています。
まず、フランス軍のうち清に滞在していた軍艦が清の海軍と戦いました。
これを【馬江海戦】といいます。
この頃は清にも西洋式の軍艦があったのですが、運用に慣れていなかったのか、アヘン戦争同様に清海軍は木っ端微塵にやられました。
そのやられっぷりたるや。
「1時間で清の死者が3,000人」という無残なものです。しかも、例によってフランス海軍はほぼ無傷でした。
さらに、近隣にいたアメリカ・イギリス二国の海軍にバッチリ見られています◞౪◟◔) って、もうやめたげてよお!
これによって、清国内での反仏感情は高まりました。
馬江海戦で損傷したフランス艦が香港で修理を頼んだとき、中国人の職人が大規模なストライキを起こしています。
このころ香港はイギリス領になっていたので、イギリス人が暴動やストライキの対応にあたったのですが、中国人が一人射殺されて大混乱に陥りました。そりゃ(ry
フランス軍は次に、台湾北部を占領すべく海兵隊を送りこみます。
海の要衝を二ヶ所抑えれば、清との講和がしやすくなると考えていたのです。
が、ここでは清軍もよく戦い、戦線は膠着しました。
「フランス海軍を港に入れないで!」
その間にもフランスから艦隊がやってきており、1885年2月、大陸側で再び海戦が起きます。
「石浦湾海戦」と呼ばれていて、フランス海軍からの夜襲により清の船が一隻沈み、戦闘はほとんどそれだけで終わっています。
小競り合いくらいの感じですかね。
戦闘そのものよりも難しかったのが事後処理でした。
度々海で攻撃を受けていた清は、イギリスに「フランス海軍をウチの港に入れさせないで」と泣きついたのです。
あれだけやられた相手に頼み事ができるのもスゴイですが、毒を食らわば皿までもってことなんですかね。ちょっと違うか。
こうしてフランス海軍は食料や水の調達ができなくなり、報復として海路で清の米が輸送されるルートで邪魔をしました。兵糧攻めで講和に持ち込もうとしたのです。ゲスい。
しかし、清は冷静に海路から陸路に変えてスルーしました。
講和って個人間でいえば仲直りにあたるもののはずなんですが、こんなにケンカ売られてたら応じる気にならないですよねえ。
実はフランスは、不平等条約改正をエサに清仏戦争への日本の参戦を促しています。
外務卿(外務大臣)の井上馨はノろうとしたのですが、伊藤博文や西郷従道が「今よそに首突っ込んでる場合じゃねえだろ」(超訳)と反対して立ち消えになりました。
このころ日本はまだ内閣すらできていない状態でしたからね。
フランスでもそのうち諦めているのですが、やっぱりやり方が汚いというか、取引というより脅迫くさいから失敗するんじゃないですかね……。
勘違いでパニックを起こして負ける……って富士川の戦い?
さて、ベトナム側でも陸の小競り合いが続き、フランス軍が辛勝を重ねながら前進していました。
しかし、犠牲の割に得られるものが少ないことから、フランス議会が紛糾。
最終的に清との国境付近の町・ランソンへの総攻撃が議決され、1885年の年明けから攻勢が始まります。
同年2月の戦いでは、フランス軍が物資輸送で手こずったものの、清軍がランソンを放棄して撤退したため、フランスの勝利となりました。
次にフランス軍は、ランソンの西にあるトゥエンクアンの町で清軍と国旗軍に包囲されていた友軍の救援に向かい、成功します。
これにより、フランス軍の士気は大いに上がりました。
しかし他の方面でgdgdが続き、講和交渉に入れません。
せっかく攻め取ったランソンでは、フランス軍の司令官が負傷して指揮系統が麻痺してボロ負けし、兵が自ら町を放棄して壊走するという「おまえは何を言っているんだ」な事態が起きます。
取るものもとりあえず逃げたので、清軍がランソンに入ったとき、膨大な物資や武器が残されていたとか。
実際には、このとき清軍はランソンを奪還しようとしていなかったんですけども。
「勘違いでパニックを起こして負ける」とは、実際は戦わない富士川の戦いみたいな話ですね。
清軍からすれば棚からぼたもちでしょうか。
清軍も無傷ではなかったので追撃せず、黒旗軍が代わりにフランス軍を撃破しています。
仏領インドシナとしてベトナム・カンボジアを植民地化
この一連の流れで、フランス軍の士気はだだ下がりどころか恐慌状態にまで陥ることに。
しかもこのボロボロっぷりが後方の司令部にも伝わり、さらにフランス本国にも報告されてしまったため、現地ばかりか議会まで一気に敗戦の恐怖に怯えることになります。
一時の臆病風がハリケーンレベルの影響力になってしまったわけです。
世論も厭戦に傾き、当時の首相ジュール・フェリーが免職になりました。
新たに首相となったシャルル・ド・フレシネは、今度こそ清国との講和に動きます。
清も手詰まりだったので了承し、やっと停戦条約が締結。
ちなみに、フランス軍の総司令官はその2日後に病死しています。
締結が遅かったら、現場の責任者交代などでまたずれ込んだかもしれませんね。その場合、さらにgdgdが続いたのでしょう。
フランスは同条約で北ベトナムを獲得しました。
戦後しばらくは反乱に悩まされましたが、1887年にカンボジアや南ベトナムも手に入れ、まとめて「仏領インドシナ」として植民地にします。
途中経過がgdgd過ぎて国民には呆れられており、もう少しで仏領インドシナを返還するところまでいっていますが。
一方、清はこの戦争の敗北を受け、海軍の近代化と指揮権の統合を進めようとしました。
が、結局成功せず、日清戦争にも敗れて完全に頓挫し、王朝そのものが滅亡に向かって転がり落ちていきます。
それでもアヘン戦争から数えれば70年ぐらいはもっているんですけれどもね。
経緯が経緯だけに褒められないというか、ビミョーな感じですね。
長月 七紀・記
【参考】
清仏戦争/wikipedia