津田信澄という戦国武将をご存知でしょうか?
名前だけ見ると茶人や商人と間違われしまうかもしれませんが、実は、血統的には戦国バリバリ。
織田信長の甥っ子にして、明智光秀の娘婿――と、それだけではありません。
信長と家督争いをして謀殺された弟・織田信勝(織田信行)の息子でもあり、歴史の流れ方次第ではもっと後世に名を馳せていたかもしれません。
しかし、それが叶うことはありませんでした。
【本能寺の変】によって、彼の運命もまた激変、1582年6月24日(天正10年6月5日)に討たれてしまったのです。
※以下は織田信勝の考察記事となります
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父の信勝が謀反を企て始末され
津田信澄は1555年から1558年頃、信長の弟・信勝の嫡男として生まれました。
しかし、信長と信勝は大河ドラマ『麒麟がくる』でもお馴染みの通り、血で血を洗う間柄。
彼らの父である信秀が亡くなってから対立が目に見えて激化して参ります。
武力衝突に至った【稲生の戦い】で信勝が敗れ、詫びを入れて許されはしたのですが、その舌の根も乾かぬうちに再び謀反を企ててしまうのでした。
しかも信勝は、自分の家老である柴田勝家などをないがしろにしたため、結果、勝家に見限られて信長に謀反を密告され、始末されてしまいます。
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それが1558年11月のことです。
信澄はまだ、物心つくかどうかの幼子。
普通、武家の家督争いが激化したとき、禍根を断つためこういった男児は皆殺しにされます。
しかし、信長は違う道を選びました。
命を助けたばかりか、織田家に残してきちんと育て上げたのです。
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人材不足の織田家だから賭けに出た!?
理由はいくつか考えられます。
信長&信勝の母である土田御前の助命嘆願もあったでしょうし、もともと信長は身内や家臣に甘いところがありました。
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さらには、尾張内でも勢力の大きくなかった織田弾正忠家(信長の家・織田家の本筋から見れば庶流)では人材が貴重であり、血縁者を減らすのが忍びなかったのかもしれません。
信長にも、この頃には信澄とほぼ同世代の息子三人がいましたので、
こんな風に賭けに出たのかもしれません。
「この歳の子供(信澄)が、成長するまで父親のことや恨みを覚えていられるとも思えない。将来、俺の息子に協力して生きていくよう、きちんと教育してやろう」
これは、武家の人間としてはかなりの博打。
例えば父の敵である平清盛に命を助けられ、20年後に平家を滅ぼした源頼朝のように、いつ信澄が信長に反旗を翻すかもしれません。
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もしかしたら信長にはある種の確信があったかもしれません。
例えば頼朝が助命されて伊豆へ流されたとき、年齢的には少年ながら元服を済ませた「大人」でした。
朝廷にも出入りしており、女院である上西門院の蔵人(秘書のような身の回りの仕事をする官職)も務めています。
当然、上方の暮らしや父親のこと、自分の立場をはっきり記憶していたことでしょう。
一方、信澄の場合は?
父の信勝が謀殺された時は正真正銘の幼児です。
子供を殺すのが忍びなかったというよりは、
「禍根が残らないなら、親族の結束を説いて有効活用すべき」
だと判断したのではないでしょうか。
もちろん、うまく行かなかったときは文字通り斬り捨てることも考えたでしょう。
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