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【津田信澄】
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蘭奢待切り取りの奉行も務めた
幸い、津田信澄もその弟たちも、大きな問題は起こさずに成長しました。
信澄個人の性格や暮らしぶりについては、目立ったエピソードがないほどです。
生い立ちを考えれば、順調すぎるほど順調だったからこそ、何も伝わらなかったのでしょう。
元服後には信長主催の茶会に出たこともありますし、信長が正親町天皇から蘭奢待の切り取りを許されたときには、奉行の一員を務めています。

天下一の名香として知られる蘭奢待/wikipediaより引用
蘭奢待の件が1574年ですので、信澄は数えで20歳を超えたかどうかといったところ。
日頃の態度や能力に問題がなく、若いうちから信長の信頼を得ていたものと思われます。
1578年あたりからは津田姓を名乗っていたようで、同時期に従兄弟である織田信忠に従い、戦場へもたびたび赴くようになります。

織田信忠/wikipediaより引用
京都御馬揃えでも一門衆の5番目ポジション
初陣を果たしたのは天正三年(1575年)の越前一向一揆です。
その後は近江に領地を与えられたり、明智光秀の丹波攻略に参戦。
程なくして光秀の娘を正室にもらい、天正七年(1579年)には長男も生まれています。
さらに、石山本願寺との戦いや荒木村重征伐にも参加したり、信長の趣味兼人材発掘の場である相撲興行でも奉行を務めました。
堀秀政や蒲生氏郷などと一緒にやっているので、重臣だった両者と同じくらいの扱いは受けていたのでしょう。

蒲生氏郷/wikipediaより引用
信長の一大軍事パレードである【京都御馬揃え】の際も、一門衆の五番目に位置しています。
これは信長の長男・次男・弟・三男の次ですから、決して低い立ち位置ではありません。
とはいえ欲がなかったわけでもなさそうです。
伊賀平定の際は、自ら大和(現・奈良県)を希望して、諌められたこともありました。
その後も四国攻め計画で大阪駐屯を命じられたり、丹羽長秀とともに家康の接待を命じられているので、これで信長の心証が悪化したというわけでもなさそうです。
これらの待遇からして、やはり信長は信澄を「今後の織田家を支える人物」の一人にするつもりだったのでしょう。
しかし、信澄にとってはそれが仇になってしまいました。というのも……。
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