篤姫

篤姫/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末に薩摩から将軍家に嫁いだ篤姫「徳川の女」を全うした47年の生涯とは?

2024/12/18

薩摩藩主・島津斉彬の子として育てられ。

公家の養女として、十三代将軍・徳川家定の妻となり。

幕末の動乱では、故郷の薩摩が、嫁ぎ先の徳川幕府を倒す――そんな波乱万丈な人生だったことでお馴染みの篤姫。

鹿児島生まれだけあって、就寝前にはお酒を飲んでいたなんて話もありますが、実際は、どんな女性だったのか?

天保6年(1836年)12月19日に生まれた篤姫の生涯を振り返ってみましょう。

篤姫/wikipediaより引用

 


薩摩の有力一族から生まれた天璋院篤姫

「篤姫(篤子)」という名前になったのは養女になったときです。

実はその後に「敬子(すみこ)」と改名していいるのですが、記事中では「篤姫」で統一させていただきます。

篤姫の初名は「一(かつ)」と言いました。

大河ドラマでも「一、と書いて“かつ”」という台詞が何回か出てきていましたので、ご記憶の方も多いかもしれません。2018年の『西郷どん』では「於一(おかつ)」と記されておりましたね。

実父の島津忠剛(ただたけ)は、島津家家臣のうち最上級とされる「一門」の一員。

今和泉(いまいずみ)島津家の五代目当主でした。

これまたドラマでは

「御台所になるには身分が低すぎる」

とさんざん言われていましたが、それはあくまで将軍家から見た話です。

世間的な彼女の立場は立派なお姫様であります。

ただ、後述する大奥でのふるまいからすると「深窓のお姫様」ではなく、武家の女性としてシッカリした考えを持っていたようですね。

そんなお姫様の篤姫ですが、もしも彼女が今和泉家にずっといた場合、おそらくや家中の重臣である誰かと結婚していたでしょう。

しかし、当時の特殊な事情により、彼女の運命は大きく変わりました。

将軍・徳川家定(1824-1858年)と、その周辺に複数の問題があったのです。

徳川家定/wikipediaより引用

 


将軍家安定のため正室に男児が欲しい

大きな問題は2つありました。

一つは、家定自身が病弱だったこと。

生まれつきのことですから誰が悪いわけでもありませんし、手を打つのも難しいところ。

二つめは、家定が迎えた正室が立て続けに亡くなっていたことです。

将軍の正室である「御台所」は、公家の五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)から迎える慣習がありました。

五摂家とは、摂政関白に就ける藤原一族の中でも断トツTOPのエリートで、家定もそのようにしていたのですが、最初の御台所が若くして亡くなり、二人目も同じような経過を辿ってしまいます。

そして、この時点で次の将軍候補が確定していなかったことも、大きく影響しました。

ただでさえ天災の多い江戸時代。

将軍の正室が不在、かつ正式に後継者が決まっていない――というのは幕閣や大名だけでなく、社会不安を引き起こすには充分過ぎる事態です。

解決方法は二つです。

家定に新たな正室を迎えて、男子が生まれることを祈ること。

もう一つは、息子ができないならできないで、早めに徳川家の血縁者から次期将軍を決めること。

では現実的にどうだったか?

言わずもがな「将軍の息子が生まれ、そのまま後継者になる」ほうが望ましい話です。

儒教がほぼ全ての行動基準になっているこの時代、実子がいるのに養子を迎えて跡を継がせるようなことはほとんどありません。

江戸幕府でも、六代将軍・徳川家宣が

「私の息子(七代・徳川家継)は病弱だから、御三家の中から養子を迎えて将軍職を継がせたほうが良いのではないか」

と考えたことがあります。

徳川家宣/wikipediaより引用

しかし、当時の幕臣たちが

「実子がいるのに養子を迎えるのは筋が違います。私どもがしっかりとお支えしますので、家継様の将軍継承は問題ありません」

と大反対し、家継が後継者になった……ということがありました(結局、家継が幼いうちに亡くなったため、紀州家から徳川吉宗が入って八代将軍になります)。

いずれにせよ幕府としては、より安全を期するためどちらの道も取れるように準備をしておきたいところです。

 

側室・お志賀の方は性格に難アリで

「江戸時代なんだから、側室をいっぱい用意すればいいじゃん」

そう思った方もおられるかもしれませんね。

たしかに家定にも、お志賀の方という側室がおりました。

と、この彼女の性格が問題だったのです。

お志賀の方はとても独占欲が強く「御台様のところへ一度行ったら、自分のところには二回来てくれなければ嫌だ」というほどでした。

正室である御台所が相手でもそんな調子なのですから、もしも篤姫が側室となって対等な立場ができてしまった場合、お志賀の方がどのような暴発をするかわかったものではありません。

大奥は女性同士の抗争のイメージが強いですけれども、それと同じくらい怪奇事件というか、怪談の類も多いところですし……。

そんなわけで、家定が側室を増やすのは難しく、新たに御台所を迎える他ない状況だったのです。

通常ならば、上記の通り、公家の五摂家から適当な年頃の女性を……となるところですが、これまでの家定の正妻2名が既に亡くなり、彼女らが公家出身だったこと、そもそもこの頃の五摂家に条件の合う姫がいなかったことから、人選が難航。

武家の中から選ぼうにも、ヘタをすると選ばれなかった大名から反感を食らいます。

仮に、元々は親戚である松平姓の人々であっても、同じだったでしょう。

そこで、薩摩に白羽の矢が立たったのです。

十一代将軍・家斉の正室が、ちょうど島津重豪(しげひで)の娘・茂姫(しげひめ)だったことから、

「島津家の姫なら前例があるし、大丈夫だろう」

ということになりました。

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ちなみに茂姫のときの婚姻は、家斉が将軍になる前だったため、当時は問題視されることはありませんでした。

家定の頃は、島津家の姫以外に選択肢がなかったともいえます。

 


薩摩藩主・斉彬に適切な娘がおらず分家から

ただ、話を持ちかけられた島津家のほうでも若干困りました。

なぜかというと、ときの島津藩主・島津斉彬(なりあきら)の子女で無事に育った者が少なく、家定と合う年頃の姫もいなかったのです。

島津斉彬/wikipediaより引用

そこで分家まで探した結果、篤姫が適当であると判断されます。

なお、斉彬の父と篤姫の父が兄弟なので、いとこ同士で養父・養女の間柄になっています。

まぁ斉彬と篤姫は27も歳が離れているので、文字通り親子のような年齢差でしたが。

養女になった後、篤姫は斉彬の下で、お妃教育ならぬ御台所教育を受け、嘉永六年(1853年)8月21日に鹿児島を出立し、陸路で江戸へ向かいました。

大河では海路を取ったと描かれていましたが、それは収録後に「篤姫は陸路で江戸へ行った」という史料が見つかったからです。

そして江戸の薩摩藩邸で改めて教育を受けた後、安政三年(1856年)に形式上は右大臣・近衛忠煕の養女となってから、江戸城へ輿入れします。

このとき西郷隆盛が色々と準備に活躍したという話があり、『西郷どん』の原作でも同シーンが出て参ります。

西郷隆盛/wikipediaより引用

ちなみに、この薩摩藩邸で篤姫を教育し、側に仕えた老女を幾島(いくしま)と言います。

大河ドラマ『西郷どん』では斉藤由貴さんが演じる予定だった役で、ドタバタの末に南野陽子さんに決まった人物ですね。

幾島は「女丈夫」とか「心たくましく肝が太い女性」等と称された女性で、生まれは薩摩、京都生活も長く体験しており、その先、江戸で心細くなるであろう篤姫の側に仕えるのにピッタリな方でした。

こうした経緯によって篤姫は肩書上は「五摂家の姫」となり、将軍御台所にふさわしい身分になったわけです。

茂姫も、夫の家斉が将軍になってから、形だけ近衛家の養女になっています。

その後は斉彬の意向で、次期将軍に水戸家出身の徳川慶喜を推す……はずでした。

しかし、篤姫自身が慶喜の資質に疑問を感じたようで、決して二人の関係は良好ではなく、家定の後継者は紀州家の慶福(後の徳川家茂)になります。

この辺の政治的な話は以下の記事をご覧いただくとして、この先は、篤姫の日常生活を少し覗いてみましょう。

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さすが薩摩出身 お酒に強く晩酌もしていた

篤姫の存命中に戊辰戦争や江戸城無血開城があったため、当時、大奥に勤めていた女性の証言が残っており、篤姫の時代の逸話はある程度判明しています。

一番篤姫の人柄がわかりやすいのは、お酒の逸話かと思われます。

さすが薩摩出身というべきか、篤姫は割とお酒に強かったようで、たびたび晩酌をしていたそうです。

しかも一人で飲むのではなく、自分の世話係である御中臈(おちゅうろう)と一緒に酒を飲んでいたのだとか。

ときには自分からお酌をしてやっていたといいます。

この時代、身分が上の者から盃を賜るのはそれだけで名誉なことです。

御台所といえば江戸城や武家の中では二番目にエライと言っても過言ではない人ですから、篤姫がこれをやりだしたとき、周囲はさぞ驚いたでしょうね。

篤姫の気さくな性格がうかがえます。

自立心が強かったということがわかる逸話もあります。

少々下世話な話になりますが、当時のお姫様は、トイレを済ませるにも人の手を借りるのが当たり前でした。

文字通り「下の世話」をされていたわけです。

しかし、篤姫は月一のイベント(婉曲表現)時だけはお手洗いに人を入れなかったといいます。

 

輿入れ2年で徳川家定が亡くなってしまい……

家定唯一の側室・お志賀の方と篤姫がどのような関係だったか、詳細は不明です。

もちろん、立場は篤姫のほうが上ですから、表向きはお志賀の方が一歩引いていたでしょう。

また、嫉妬深い一方で、お志賀の方は家定の世話を事細かにしていたといわれているので、家定にとっては得難い理解者でもありました。

その辺を考えると、篤姫が自ら嫌悪感を露わにすることはなかったのでは……という気がしますね。

気に入ることもなかったでしょうけれど。

肝心の夫婦仲については、そもそも篤姫の輿入れから家定が亡くなるまで二年もないためか、ほとんどわかっていません。

家定が病弱すぎて子供が作れなかったのは事実でしょうけれども、頭の方はしっかりしていたと思われるので、それなりに夫婦の会話はあったはずなのですが。

家定が大奥の女性についてよく覚えていたり、父・家慶の看病を自ら行ったときに気遣っていたという逸話があります。

篤姫も、家定の犬嫌いを気にして猫を飼っていたくらいですから、

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最低限、あるいはそれ以上にお互いを気遣う姿勢はあった……と思いたいところです。

 

勝海舟と料亭や芝居見物、はたまた吉原へ

明治元年(1868年)に江戸城を(騙されたような形で)立ち退いた篤姫は、その後、十六代将軍になる予定だった徳川家達(いえさと)の養母としてともに暮らしていました。

江戸城明け渡しの前も後も

「もう実家の薩摩には戻らないし、薩摩の財布を頼るつもりもない」

と決めていたのでしょう。

幼少の頃の徳川家達/wikipediaより引用

篤姫は元々気丈な女性でしたから、市井に下ったことを嘆くよりも楽しんでいた節があります。

悪く言えば、大奥はある意味で軟禁場所。

夫の見舞いにも行けないような場所から出たのですから、開放感を味わっていたのかもしれません。

外出も積極的にしていました。

勝海舟に連れられて料亭や芝居見物、はたまた吉原にまで出かけています。

勝海舟/wikipediaより引用

これはただのデートではなく、海舟の「市井の生活と今の徳川家の財政を理解してもらう」という狙いもあったようです。

そのおかげか、篤姫は少しずつ倹約や家事をするようになっていきました。

自らの生活を切り詰めてまで、大奥時代の部下達の働き口を斡旋してやっていたそうです。

明治十年(1877年)には箱根へ療養に行っていた「嫁」に相当する皇女・和宮(かずのみや)」を見舞おうと計画しています。

篤姫が着く前に和宮は脚気衝心(脚気が原因で起こる心不全)で亡くなってしまうのですが……。

それでも残念だったのでしょう。

亡くなる3年前の明治十三年(1880年)には、和宮が亡くなった場所を訪れて歌を詠んでいます。

「君が齢(よわい)とどめかねたる早川の 水の流れもうらめしきかな」

【意訳】この早川、あなたの寿命を留めるどころか押し流していってしまったのですね。もう一度お会いしたかったのに、恨めしいこと……

大奥にいた頃は、武家と宮家の生まれの違いや嫁姑による激しい対立があったものの、最後には力を合わせて徳川家のために尽くした仲として、最後に直接語らいたかったのでしょうね。

友情というと男性のものというイメージが強いですが、晩年の篤姫と和宮にもなかなか熱い友情を感じます。

 

葬儀のときには1万人もの人々が見送りに集まった

篤姫は、今までよりずっと家族と近いところで生活できるようになったので、特に徳川家達の教育には力を注いでいました。

家達は14歳から19歳までロンドンへ留学しており、これも篤姫たちが勧めてのことだったそうです。

その割に家達さん、この時代で衆道のケがあったそうで、後々そのせいで困ったりもするんですですけれども……篤姫が亡くなってから目覚めちゃったんでしょうか。

徳川家達/wikipediaより引用

さて、気丈な篤姫でしたが、その最期は意外とあっけないもの。

お風呂場で足を滑らせて頭を打ち脳卒中となり、そのまま意識を取り戻さなかったそうです。

苦しまずに亡くなったのなら死に方としては悪くないのかもしれませんが、まだ47歳という年齢での惜しまれる死でした。

篤姫の葬儀の際には、見送りの人々が1万人も集まったといいます。

大部分は大奥で働いていた女性やその家族でしょうが、もしかしたら薩摩出身者や旧幕臣、和宮の縁者などもいたかもしれませんね。

多くの人に見守られながら、篤姫は「徳川の女」として生涯を終えたのでした。


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【参考】
山本博文『面白いほどわかる大奥のすべて―江戸城の女性たちは、どのような人生を送っていたのか』(→amazon
国史大辞典「天璋院」
天璋院/wikipedia
Slownet(→link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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