篤姫

篤姫/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末に薩摩から将軍家に嫁いだ篤姫「徳川の女」を全うした47年の生涯とは?

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薩摩藩主・斉彬に適切な娘がおらず分家から

ただ、話を持ちかけられた島津家のほうでも若干困りました。

なぜかというと、ときの島津藩主・島津斉彬(なりあきら)の子女で無事に育った者が少なく、家定と合う年頃の姫もいなかったのです。

島津斉彬/wikipediaより引用

そこで分家まで探した結果、篤姫が適当であると判断されます。

なお、斉彬の父と篤姫の父が兄弟なので、いとこ同士で養父・養女の間柄になっています。

まぁ斉彬と篤姫は27も歳が離れているので、文字通り親子のような年齢差でしたが。

養女になった後、篤姫は斉彬の下で、お妃教育ならぬ御台所教育を受け、嘉永六年(1853年)8月21日に鹿児島を出立し、陸路で江戸へ向かいました。

大河では海路を取ったと描かれていましたが、それは収録後に「篤姫は陸路で江戸へ行った」という史料が見つかったからです。

そして江戸の薩摩藩邸で改めて教育を受けた後、安政三年(1856年)に形式上は右大臣・近衛忠煕の養女となってから、江戸城へ輿入れします。

このとき西郷隆盛が色々と準備に活躍したという話があり、『西郷どん』の原作でも同シーンが出て参ります。

西郷隆盛/wikipediaより引用

ちなみに、この薩摩藩邸で篤姫を教育し、側に仕えた老女を幾島(いくしま)と言います。

大河ドラマ『西郷どん』では斉藤由貴さんが演じる予定だった役で、ドタバタの末に南野陽子さんに決まった人物ですね。

幾島は「女丈夫」とか「心たくましく肝が太い女性」等と称された女性で、生まれは薩摩、京都生活も長く体験しており、その先、江戸で心細くなるであろう篤姫の側に仕えるのにピッタリな方でした。

こうした経緯によって篤姫は肩書上は「五摂家の姫」となり、将軍御台所にふさわしい身分になったわけです。

茂姫も、夫の家斉が将軍になってから、形だけ近衛家の養女になっています。

その後は斉彬の意向で、次期将軍に水戸家出身の徳川慶喜を推す……はずでした。

しかし、篤姫自身が慶喜の資質に疑問を感じたようで、決して二人の関係は良好ではなく、家定の後継者は紀州家の慶福(後の徳川家茂)になります。

この辺の政治的な話は以下の記事をご覧いただくとして、この先は、篤姫の日常生活を少し覗いてみましょう。

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さすが薩摩出身 お酒に強く晩酌もしていた

篤姫の存命中に戊辰戦争江戸城無血開城があったため、当時、大奥に勤めていた女性の証言が残っており、篤姫の時代の逸話はある程度判明しています。

一番篤姫の人柄がわかりやすいのは、お酒の逸話かと思われます。

さすが薩摩出身というべきか、篤姫は割とお酒に強かったようで、たびたび晩酌をしていたそうです。

しかも一人で飲むのではなく、自分の世話係である御中臈(おちゅうろう)と一緒に酒を飲んでいたのだとか。

ときには自分からお酌をしてやっていたといいます。

この時代、身分が上の者から盃を賜るのはそれだけで名誉なことです。

御台所といえば江戸城や武家の中では二番目にエライと言っても過言ではない人ですから、篤姫がこれをやりだしたとき、周囲はさぞ驚いたでしょうね。

篤姫の気さくな性格がうかがえます。

自立心が強かったということがわかる逸話もあります。

少々下世話な話になりますが、当時のお姫様は、トイレを済ませるにも人の手を借りるのが当たり前でした。

文字通り「下の世話」をされていたわけです。

しかし、篤姫は月一のイベント(婉曲表現)時だけはお手洗いに人を入れなかったといいます。

 


輿入れ2年で徳川家定が亡くなってしまい……

家定唯一の側室・お志賀の方と篤姫がどのような関係だったか、詳細は不明です。

もちろん、立場は篤姫のほうが上ですから、表向きはお志賀の方が一歩引いていたでしょう。

また、嫉妬深い一方で、お志賀の方は家定の世話を事細かにしていたといわれているので、家定にとっては得難い理解者でもありました。

その辺を考えると、篤姫が自ら嫌悪感を露わにすることはなかったのでは……という気がしますね。

気に入ることもなかったでしょうけれど。

肝心の夫婦仲については、そもそも篤姫の輿入れから家定が亡くなるまで二年もないためか、ほとんどわかっていません。

家定が病弱すぎて子供が作れなかったのは事実でしょうけれども、頭の方はしっかりしていたと思われるので、それなりに夫婦の会話はあったはずなのですが。

家定が大奥の女性についてよく覚えていたり、父・家慶の看病を自ら行ったときに気遣っていたという逸話があります。

篤姫も、家定の犬嫌いを気にして猫を飼っていたくらいですから、

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最低限、あるいはそれ以上にお互いを気遣う姿勢はあった……と思いたいところです。

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