集成館事業

薩摩切子と島津斉彬/wikipediaより引用

幕末・維新

薩摩切子で芋焼酎を楽しめるのは斉彬が遺した集成館事業のお陰です

ガラス製品というよりも、まるで宝石をそのままグラスにしたような美しさ。

それがTOP画像にもある【薩摩切子】のグラスです。

この美しいグラスで、芳しい芋焼酎を飲んだらどれだけ美味しいだろうか……。

嗚呼、実際に楽しまれている鹿児島の方は、さぞかし島津斉彬に感謝していることでしょう。

というのも、この2つの鹿児島名産品。

島津斉彬による【集成館事業】の成果なのです。

幕末に深く関わりのある、この産業、その歴史を振り返ってみたいと思います。

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斉興の代から始まっていた改革

ドラマ等に登場する斉彬はしばしば、鎖国の眠りに落ちていた日本の中で危機感を覚えていた数少ない人物のように描かれます。

一方で父の島津斉興はとことん無頓着のように描かれがちですが、実際はそうでもありません。

斉興は、当時の藩主の中でも、最も外国の脅威を実感している人物でした。

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それは彼の資質云々の話ではなく、薩摩という土地の藩主である以上は気づいて当然の地理的条件によるものです。

薩摩藩が支配していた琉球には、何度も外国船がやって来ていました。

鹿児島湾にすら、外国船は姿を見せていたのです。

本州に住む人々にとって外国船が「いずれ来る危機」だった頃、薩摩藩にとっては「今、そこにある危機」でした。

以下、主要な事件を並べてみます。

・文政7年(1824年)宝島事件
→奄美大島北方にある宝島へ上陸し、牛を奪おうとしたイギリス人船員を、島民が殺害→「異国船打払令」のきっかけになる

・天保8年(1837年)モリソン号事件
→日本人漂流民を送り返そうと鹿児島湾に来港したアメリカ商船「モリソン号」を、砲撃を加えて退去させる

・天保14年(1843年)琉球八重山にイギリス船来航、制止を無視して測量

・弘化元年(1844年)フランス軍艦アルクーメーヌが那覇に来航、キリスト教布教を求める

・弘化3年(1846年)イギリス人宣教師ベッテルハイム、フランス軍艦三隻来航、通商を求める

このような状況です。

斉興とその側近である調所広郷は、外国船の危機を知らないどころか最前線での対処を強いられていました。

そして彼らは早い段階で「攘夷は無理だ」とも悟っていたのです。

 

 


父子ともに国力増強の必要性を感じていた

そんな薩摩藩に対し、幕府は「琉球に藩兵を派遣してなんとかしろ」と迫ります。

しかし斉興は、無意味だと理解していました。

むしろトラブルを招きかねないと消極的。実はこの「攘夷は無意味、改革と国力をつけよ」という方針は、息子たち、島津斉彬、島津久光にも引き継がれているのです。

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その一方で、何もしないわけにもいかないというのも、十分にわかっておりました。

そこで、彼は調所とともに改革に取り組みました。

・洋式砲術導入

・砲台の建設

・青銅砲による海岸防備の強化

・軍制改革、甲州流軍学の廃止

・軍役負担の改革、給地高の改正

斉彬を讃えたいがため、幕末の薩摩作品などでは、斉興・調所コンビと久光が過小評価されがちです。

しかし、史実を考えれば、斉興・調所も改革に取り組んでいたことを軽視できません。

調所は奸臣として大いに嫌われますが、その原因は、給地高(臣下に配給する土地)の改正によって藩士の恨みを買ったことも一因。とことん不幸な人でした。

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ともあれ、開明派の素養を持った父子で、なぜ意見が対立し、斉興はなぜ藩主の座をなかなか斉彬に譲らなかったのか。

不思議に思えてくるかもしれません。

どうやら斉興・調所からすると、斉彬は

「肝心なところに金を使わず、余計なところにつぎこんで財政を悪化させそうだ」

と思われたようです。

実はこの懸念は的中してしまった部分もありまして。斉彬が藩主に就任すると、薩摩藩内には増税が敷かれたのでした。

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