甲州流軍学――はたまた【甲州流築城術】という言葉を聞いたことございます?
戦国ファンの皆様であれば、一度は興味を惹かれたことと思いますが、この言葉が普及するすべてのキッカケは、実は一人の武将でした。
現在の松本城天守を造ったと伝えられる「石川数正」です。

石川数正/wikipediaより引用
甲州流軍学は家康が目をつけ始まった
徳川家康に付き従っていた三河以来の譜代家臣・石川数正――。
彼は【小牧・長久手の戦い】直後、家康のもとを出奔して豊臣秀吉の家臣になりました。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用
当然ながら困ったのは家康です。
なんせ、徳川軍の最高機密となる軍制は、すべて秀吉側へ筒抜けとなったのです。
そんな状態で合戦が始まれば、圧倒的不利な状況に追い込まれるリスクが高まり、徳川としては仕方なく軍制を変更せざるを得ません。
このとき家康が新たに採用したのが武田信玄の流れを汲む「武田流」です。
恐怖のあまりウンコを漏らした――そんなエピソードで戦国ファンには有名な【三方ヶ原の戦い】。
信玄の事績は「武田信玄の生涯を徹底解説」にありますが、若き日の徳川家康が、信玄はじめ山県昌景や馬場信春、小山田信茂など武田家の武将にコテンパにやられた合戦があります。
それ以外にも、何度も何度も際どい戦いをしてきた家康が『武田の手法を取り入れよう!』と思っても何ら不思議ではありません。
石川数正の出奔を機会に採用することにしたのです。
数正が豊臣家へ出奔したのは1585年。
ゆえに関ヶ原の戦い(1600年)までには十分に間に合っていたことでしょう。
小幡景憲が立ち上げ後に北条流や謙信流も
そして関ヶ原の戦い後――。
ほぼ徳川の世の中になりつつある頃、武田の旧臣・小幡景憲が「甲州流軍学」なるものを立ち上げます。
「家康公は如何にして成功したのか」
「絶対に勝てる!家康公の戦略」
「もしも女子マネージャーが甲州流軍学を読んだら」
「秒速で稼ぐ!」
みたいなハウツー販売で一儲け……では、ありませんが、この甲州流軍学がちょっとしたブームを巻き起こします。
平和な江戸時代になっても武士の学問の一つとして隆盛を極めたのです。
後に「北条流」などの分派も誕生。
「謙信流」という、おそらく上杉謙信とは全く関係のない流派まで出てきました。

上杉謙信/wikipediaより引用
しかし、です。
合戦の戦略や戦術、武器の運用などを武士が学ぶというのは、幕府にとっては非常に警戒すべきことでもあります。
なので内容的に攻撃的な戦術は徐々に消極的なものとなり、一方で、築城術などディフェンシブな軍学が主流となっていきます。
そうです。いつの時代もミリタリーマニアは危険視され、城マニアは時代に許容されるのです(笑)
ともかく、徳川幕藩体制下で、甲州流軍学=築城術のような学問になっていきます。
机上の学問に成り果てた甲州流軍学
甲州流軍学が絶頂に達したのは江戸時代となります。
ゆえに戦国時代の城郭を甲州流軍学の理論であてはめて考えるのは後付けでしかなく、その城の持つ本来の意義や実力を見誤ってしまいます。
唯一の例外が赤穂城で、江戸時代に甲州流軍学者を招いて縄張りを設計したので、まさにマニアのマニアによるマニアのための縄張りとなっています。
甲州流軍学の真髄が拝めるでしょう。
赤穂城はJR赤穂駅から近いので、姫路城とセットで行くのがオススメですよ。
では、この甲州流軍学は、どのような変遷を辿っていったか?
すっかり平和な時代となり、しかも【一国一城令】のため城を建て直すことですら容易でない時代に入ると、甲州流軍学はますます机上の空論と化していきます。
学問化しているので、流動性は失われます。
受講者には試験が課せられ、どんなにクリエイティブでキャッチーな縄張り図を描けても、師匠の流派を逸脱するような縄張りは決して認められませんでした。
これでは独創的な縄張りも生まれませんし、進歩もしません。
甲州流軍学は完全に机上の学問に成り果ててしまいました。
しかし戦国時代は「誰が城の縄張りを考えたのか?」という疑問は残ります。
その辺を見て参りましょう。
自分の城は自分で築け それが戦国の常識です
藤堂高虎や加藤清正、黒田如水など。
築城の名人としてよく名前が挙げられますよね。

藤堂高虎/wikipediaより引用
彼らはもちろん築城を生業としていたわけではありません。
「じゃあ軍師だ! 軍師が考えたに違いない!」といっても、そもそも軍師という職種はありません。
百歩譲って軍師が築城したと考えても、日本軍師界ではナンバーワンの実力と名声を誇る竹中半兵衛が築城したと確実に分かる城は美濃の岩手城くらいです。
その岩手城も半兵衛自身の居城ですので、自分の城を自分で築城するのは当たり前です。
実は、中世から戦国期を通じて職業的な縄張りの技術者というのは存在しません。
縄張りを請け負っていたのは、その城を居城とする城主、すなわち地元を愛する領主と家臣たちでした。
夢も希望もない結論ですが、仕方ありません。
もちろん石垣造りや建築技術については専門の集団を雇い入れます。
「あいつの縄張り、ヤバいらしい。ちょっと作らせてみないか?」
そんな志向で手がけられたのは【天下普請】の城だけです。
これは築城の歴史からすると例外中の例外。
諸大名に命じて城を作らせるのですから、支配者たる豊臣家や徳川家にしかできません。
藤堂高虎や黒田官兵衛などは、とにかく例外中の例外であり、それを我々は築城名人と呼んでいたんですね。
重ねて確認しておきます。
築城の基本はあくまでその土地の領主。
もしくはその領主に仕える家臣たちによる縄張りなのです。
高田城の縄張りは伊達政宗? こりゃやべぇ
では、ここからもう少し実際の城を見ながら進めていきましょう。
まずは松平忠輝の高田城です。
家康の六男・松平忠輝の高田城も天下普請です。
縄張りは舅の伊達政宗に任せました。
「高田城って政宗の縄張りだってよ」と囁かれただけでこの城への警戒度は上がります。
「制作総指揮 S.スピルバーグ」と書かれただけで、内容は知らなくても面白いかもと思わせるくらいのインパクトなのであります。
お次は北陸・金沢城。
こちらの縄張りは高山右近に任せました。
もともと右近は大名クラスの武将です。
が、このときは改易されて前田家の食客でした。
金沢城は元々、一向宗の拠点「尾山御坊」で一般民衆が御坊内を行き来していたので、城内の造りが金沢の住民に丸裸。
そこで前田家は、金沢城を縄張りするにあたり、大手門を北に移したりして城内を大改修したのです。
前田利家は「どうだ!一向門徒が絶対に分からないように、切支丹(高山右近)に縄張りさせたったわ!ガハハ」(「花の慶次」の前田利家っぽく)とか考えていたのでしょうか。

前田利家/wikipediaより引用
全国各地の壮麗な天下普請の城や、豊臣徳川時代に異動してきた上方の武将が築城した総石垣の城も確かに素晴らしいですが、地方の戦国武将が地元でせっせと縄張りして築いた城にも名城はきっとあるはずです。
お城の入り口にある縄張りの案内図を小一時間ニヤニヤ。そんな楽しみ方もあると思うのです。
あわせて読みたい関連記事
-

石川数正の生涯|なぜ秀吉の下へ出奔したのか 豊臣政権の崩壊後はどうなった?
続きを見る
-

秀吉vs家康の総力戦となった「小牧・長久手の戦い」複雑な戦況をスッキリ解説
続きを見る
-

武田信玄の生涯|最強の戦国大名と名高い53年の事績を史実で振り返る
続きを見る
-

徳川家康の生涯|信長と秀吉の下で歩んだ艱難辛苦の75年を史実で振り返る
続きを見る
-

豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る
続きを見る









